落合博満はやっぱりすごい《野球人 落合博満》
2016年3月1日、時代を築いたひとりの野球選手が引退を表明した。元ソフトバンクホークス、松中信彦。
イチロー、小笠原道大、中村紀洋、石井一久、三浦大輔といった黄金世代のひとりであり、2004年に三冠王を達成し、ソフトバンクホークスを何度もリーグ優勝に導いた。
三冠王を達成した選手は歴代わずか7人しかおらず、その記録を達成するのがいかに難しいかは野球経験者ならば、おのずとわかるだろう。2004年に松中が三冠王を記録して以来、12年間三冠王は現れていない。そもそも松中が達成したときも、18年ぶりの快挙だった。
松中のまえの達成者が今回紹介する本の主人公である落合博満だ。落合さんといえば、代名詞ともいえる三度の三冠王。あの王貞治ですら、2回しか達成できなかったこの記録を今後破る選手はおそらく出てこないだろう。
その落合さんの半生を綴った自伝である『野球人』を読んだ。ロッテ→中日→巨人→日ハムと渡り歩き、45歳でその野球人生を終えた。25歳でプロ入りし、20年間活躍しつづけてきたその野球人生はどのようなものだったのだろうか。
素人のアドバイスが役に立つこともある
二年連続で三冠王をとれたきっかけは、信子夫人のひとことだった。
ある日、私が最初の三冠王の時以来、本塁打王が獲れないのはなぜかと妻が聞いてきた。そんな難しい質問に答えられるわけがないと、適当にはぐらかしていたが、スポーツ紙か何かに載っていたのだろう。パ・リーグの本塁打王のリストを見て突然、妻は言った。
「あなた、もっと太りなさいよ。だって、ホームランをたくさん打つ人って、みんな太ってるじゃない。ほら、門田さんにソレイタにブーマー。あなたもこれくらい太れば打てるんじゃない」
何の科学的根拠もない思いつきだったが、この日からわが家の食卓には、関取でもいるのかというくらい多くの料理がのることになった。当然、私は食べきれない。しかし、料理の数は減ることなく、また前日の残り物が出ることもなく、毎日工夫を凝らした料理が出てくるのである。食べることにはあまり興味を持っていなかったが、妻の根気に負けて、いつしか美食家の大食漢に変身させられてしまったのである。(中略)
それにしても、太れば打球が飛ぶという発想は、私の感性では出てこなかった。
大食漢になった落合さんは、体重が75キロからあっという間に80キロに。そして、本当に打球の飛距離が伸びたのだ。きっと落合さんのフォームと体重の増加がうまくマッチしたのだろう。
野球の素人である信子夫人の意見を取り入れたからこそ、落合さんはこうして3冠王を獲得できた。
じつは、これと似たような話がある。イチローの奥さんである弓子さんの話だ。弓子さんもとうぜん野球に関してまったくの初心者。だが、イチローにアドバイスをしたことがある。
2006年。もうすっかりマリナーズの顔となり、毎年のように200本安打を打っていたイチローがスランプに陥った。バッティングフォームのかたちがなかなか決まらない。試行錯誤をくりかえすも、成果はあがらない。この年もシーズン記録である200本安打を期待されており、イチローは焦っていた。そんなとき弓子さんのひとことがイチローの窮地を救った。
「ちょっと、ホームベースから離れてみたら?」
2006年のイチローのバッティングフォームは、ホームベースに足がぎりぎり当たるかどうかくらいのフォームだった。イチローは弓子さんの意見をとりいれ、ホームベースから30cm離れて立つフォームに変更。
すると、調子はもどり、首位打者争いに食い込むまで打率は飛躍し、この年も200本安打を達成した。
野球の素人である弓子さんだからこそ、なにかの違いを純粋に気づくことができたのだ。信子夫人も弓子さんにせよ、素人だからこそわかる気づきがいかに重要なことであるかと思わされるエピソードだ。
イチローがメジャーで活躍することを予言していた
2001年、イチローはアメリカに渡り、日本人初の打者としてシアトルマリナーズに入団した。多くの評論家や解説者、野球関係者がこう言った。
「イチローは活躍できない」と。
当時のマリナーズの監督だったルー・ピネラも「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30は稼いでくれるだろう」とメディアに言うほどで、あまり期待はされていなかった。
というのも、当時は野茂英雄をはじめ、長谷川滋利、佐々木主浩、伊良部秀輝など、日本人の投手はメジャーで活躍していたが、野手の活躍は皆無。加えて、イチローのようなアベレジーヒッターはメジャーの投手のボールに力負けするといわれていた。
しかし、ふたを開けてみたら、首位打者・盗塁王・新人王・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・シーズン200本安打・オールスターでは最多投票の337万票を獲得。
このイチローの活躍を落合さんは予言していたかのように、こう述べている。
私は2年余り彼のバッティングを間近で見て、技術の高さもさることながら、これが近代野球と言うのなら私の時代は終わったと実感させられた。
そして、いっそのこと野球における未来であるメジャーでプレーしてほしいと思ったのだ。彼のバッティングは相手投手のタイプに左右されることはない。だから、ストライクゾーンをいっぱいに使って駆け引きも入れて勝負してくる日本の投手であろうと、力勝負を挑んでくるメジャーの投手であろうと変わらずにやっていけると思うのだ。
ほかの多くの野球関係者が「イチローは活躍できない」と渡米前に言ったが、落合さんはそれ以前からイチローの技術を高く評価しており、メジャーでイチローの力がじゅうぶん通用することを予測していたのだ。
王貞治の記録にあえて挑戦しなかった
落合さんが三冠王を二年連続で獲得した1985年・86年は本当にすごかったらしい。実際に落合さんと対戦した南海のキャッチャーがいうにはどこを攻めても打たれそうな気がしたという。
落合さん自身もとくに86年のシーズンは、どのコースにどんなボールがきてもスタンドへ放り込めるような勢いが自分のなかにあったらしい。
また、86年は落合さんにとっても偉大な記録に挑戦するシーズンだった。というのも、王貞治のシーズン本塁打記録55本にあと5本と迫っていたからだ。
しかし、落合さんはこの記録に挑戦しなかった。いったいなぜなのか。
10月9日に西武が優勝を決めたが、この時点で私は打率3割6分1厘、48本塁打、108打点とすべてトップ。あとは、雨で多くの試合を流していたロッテにはまだ11試合が残っていたので、数字をどこまで伸ばすかということを考えていた。
10月14日の南海戦では50号が飛び出し、目標だった2年連続での50本塁打も達成した。(中略)この試合後、私は稲尾監督に呼ばれた。稲尾監督は私の目を見て言った。
「オチ、おまえはワンちゃん(王貞治)の年間本塁打55本という記録をどう思っている」
「立派な記録ですから、チャンスがあれば僕も挑戦したいと思いますよ」ここから稲尾監督はチームに対する自らの展望を話してくれた。
「今年の結果は出てしまったが、俺は、このチームを来シーズンは優勝させたいと本気で考えている。できれば残りの試合で若手の力を見極めたいから、主力選手には休んでもらおうと思っているが、おまえには本塁打の記録がかかっている。残り8試合で今のおまえの調子なら、ワンちゃんの記録を抜くのも夢ではないよな。記録にかけるか若手にチャンスを譲るか、悪いが考えてもらえないか」
私は即答した。「いいですよ。明日から休みます。王さんの記録なら来年でも挑戦できるでしょう」
そもそも、50本塁打というのは大変な記録である。当時、パ・リーグでは5年、セ・リーグでは9年も40本を打った者すら出ていなかった。近年であれば、2002年に松井秀樹が50本塁打を達成したぐらいだ(50本塁打越えをした日本人は落合さんふくめ5名しかいない)。
本書で落合さんは、王さんの記録に挑戦しなかったことを悔やんでいた。というのも、このシーズンの終わりの日米野球で自分の確立したバッティングフォームが崩れるからだ(それでもすごい成績をのこし続けるのだけど)。このシーズン以降は、50本塁打はどころか、最高でも89年に40本塁打をなんとか達成するくらいだった。
もし、あのとき落合さんが王さんの記録に挑戦していれば...と思わずにはいられない。
- 作者: 落合博満
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