7つの名前を持つ少女 ある脱北者の物語 イ・ヒョンソ
もし、自分の「苗字」と「名前」どっちが好き?と聞かれたら、皆さんはどう答えるだろうか?
ぼくの場合、中学生のころまでは「名前」が好きで、それ以降は「苗字」の方が好きだと答えるだろう。ぼくの苗字は"馬岡"で名前が"祐希"なのだが、そもそも、ぼくを名前で呼ぶひとは少ない。苗字がめずらしく、名前がありふれていることもあり、名前で呼ぶのは家族か親戚か恋人、そしてひとりの幼なじみだけだった。
幼稚園から一緒の幼なじみは、お互いを名前で呼ぶ仲であった。しかし、中学生になったときに、突然ぼくのことを苗字で呼ぶようになった。それまで「ゆうき」と呼んでくれていたのだが、「うまおか」と呼ぶようになった。そのとき幼なじみに聞けばよかったのかもしれないが、なぜかその理由を聞くことができず、ぼくもなんとなく彼のことを苗字で呼ぶようになった。
苗字で呼ばれるようになってなんだか幼なじみと距離ができた気がして、急にさびしさを感じた記憶がある。そのとき名前を呼ばれることの嬉しさのようなものを初めて実感したのかもしれない。
「7つの名前を持つ少女」を読んだ。普通に考えて、名前を7つも持っていることはおかしな話だ。しかし、彼女には7回も名前を変えなければいけない大きな理由があった。
ーーこの国は何かがおかしい。国民は自分の意見を持つことを許されず、生徒が教師に少しでも歯向かえば体罰を受ける。国の最高指導者が死亡したら、大人は働くことを、子どもは学校に行くことをやめなければならない。そして、毎日のように泣くことを強要される。身分制度が存在し、身分が低い家柄に生まれた子どもは地獄のような生活が待っている。処刑を見ることは小学生以上の市民全員の義務であり、受刑者の家族は最前列に立たされる。小学生が通う通学路には死体が転がっている。ーー
本書はあるひとりの脱北者の物語だ。信じられないかもしれないが、これが北朝鮮の現実だ。日本ではとてもじゃないが考えられない。この辛い現実から逃れるために、中国や韓国に脱北する者は多い。
以前読んだ『生きるための選択ー少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った』の著者であるパク・ヨンミさんもそのひとりだった。
しかし、本書の著者であるイ・ヒョンソさんはほかの脱北者とは異なる背景がある。ひとつ目は、出生身分が非常に高く、不自由なく暮らすことができていたことだ。ほとんどの脱北者は出生身分が低い。だから生活は苦しく、日々の食べるものですら困っている人々がほとんどだ。
ところで、出生身分とはいったい何なのか。
「出生身分」は、北朝鮮の階級制度だ。北朝鮮の家系は大きく「核心階層」、「動揺階層」、「敵対階層」に分けられている。これは、1984年の建国当時、あるいはその直前、直後に父方の家系の人々がどういう位置にいて何をしたかで決まる階層である。
たとえば、祖父が労働者、あるいは農民の家庭の出身で、朝鮮戦争で北のために戦っていれば、その家系は「核心階層」ということになる。しかし、祖先の中に資本家や地主がいる場合、あるいは日帝支配当時日本のために働いた役人がなどいる場合、朝鮮戦争の際に逃れた者がいる場合は、その家系は「敵対階層」に分類される。
この三つの階層は、さらに細かく合計で五十一の階層に分けられる。頂点に位置するのは、国を支配する金一族で、最下位は刑務所にいて釈放される望みのないまったくない政治犯だ。(中略)
平壌に住むことが許されるのは核心階層だけで、朝鮮労働党に入ることができるのも核心階層だけだ。また、職業選択の自由もこの階層だけに与えられる。自分が出身成分の中で正確にどの階層に位置するのかは、誰にも教えられることはない。だが、ほとんどの人は感覚でそれがわかる。それはまるで五十一匹のヒツジの群れで、すべてのヒツジが自分がどのヒツジより上でどのヒツジより下なのかなんとなく知っているというようなものだ。
この制度のポイントは、下がるのは簡単なのに上に行くのはほぼ不可能という点だ。たとえそれは、上の階層の人と結婚しても無理なことである。だから、上の階層の人々は自分のしくじりで身分が落ちないように常に神経を尖らせている。
北朝鮮の人々は家族以外に心を許すことはない。なぜならちょっとしたことで出生身分が落ちるかもしれないと恐れているからだ。
ふたつ目は、 ヒョンソさんの脱北理由が飢えではないことだ。先ほど述べたように、脱北者の多くの理由は飢えである。出生身分が低いと国からの配給がわずかで生きていくことができない。さらに北朝鮮では個人の商売を禁止(公設市場では認められているが、多額の税金を納めなければならない)されている。国からの援助は見込めない、商売もできない、お金もない、ほとんどの人はそんな切実な背景があり、脱北することを決断するのだ。
しかし、ヒョンソさんはほかの脱北者とは違う。本人に脱北する意思はなかったのだ。単純に中国という国を見てみたくなり、国境を越えて数日中国で過ごして、帰ってくるつもりだった。
というのもヒョンソさんの家は中国との国境の境目である恵山(ヘサン)にあり、そこでは中国の文化や製品に触れることが多かった。密輸したテレビで違法とされる中国のテレビ放送を見たり、親戚が話す中国での豊かな暮らし振りなどを知ったことで、外の世界に興味が湧いたのだ。
たまたま中国に知り合いがいたこともあり、旅行気分で国境を渡ったヒョンソさんだが、これが彼女の運命を大きく変えることになる。そして、このことが名前を何度も変えなければならない理由へと繋がっていくことに。
はたして自由を求めて窮屈な北朝鮮を脱北した彼女はどうなったのか。そして、自由を手にしたときに待っていた数々の困難を乗り越えることはできるのか。あのTED Talkでスタンディングオベーションを起こしたスピーカーが語る北朝鮮の現実をこの目で確かめるといい。
読書めも
・金正日の肖像画の手入れは全国民の義務。すこしでも汚れや傷が見つかれば、きつい罰則が待っている。
・(ソ連が崩壊し、援助がなくなったことで)国からの配給が途絶え、人々は禁止された商売に手を出す。次々と飢えていく人々、食人が出たこともあった。
・身分によって配給の質が異なる。