読書めも

読んだ本の感想をぼちぼち書いてます

ふたりの天才が番組をした結果www《哲学 島田紳助 松本人志》

哲学 (幻冬舎よしもと文庫)

哲学 (幻冬舎よしもと文庫)

 

内容(「BOOK」データベースより)

「そろそろ自分の死に際のことを考え始めている」島田紳助。「『もうあいつには勝てんな』と他の芸人にいわせたい」松本人志。互い に“天才”と認め合う二人が、照れも飾りもなく本音だけで綴った深遠なる「人生哲学」。お笑い、日本、恋愛、家族…ここまでさらけ出してしまって、本当に いいのか?二人の異才の全思考、待望の文庫化。

感想

2000年から2006年にかけて放送されたテレビ番組「松本紳助」(通称松紳)。台本は一切なし、ふたりだけのトークバラエティ。2人の天才が混ざりあった結果、どんな科学反応が起こるのか。そんなことを実現したのがこの番組ーー。

 

 

と、おもっていたのだけど、どうやら違うみたい。

松本:この番組はいわゆる既存のトーク番組とはまったく異質なものなのだ、といっておこう。『松本紳助』という番組は、これまでのトーク番組の常識をまったく覆してしまった、きわめて斬新な、トーク番組の歴史に残るような、エポックメイキングな番組なのである。

トーク番組の常識から考えたら、僕と紳助さんのトーク番組なんて、成立する方がおかしい。そして、実際にそういう意味で、このトーク番組は成立していない。いわゆるトーク番組としては失敗だというのはそういう意味だ。この番組が画期的なのは、その成立していないところを、その失敗を、見れるトーク番組としてはものすごく成立しているというところだ。(中略)

まずトーク番組としての成功とは何かということだ。一言でいってしまうなら、トークする人間同士が、おたがいに着ている鎧(よろい)を脱いで、いかに相手の内側に入っていけるか、相手のほんまの気持ちみたいなものを引き出せるかというところにかかっている。

他人には絶対に秘密にしている相手の家の中に入っていって、なんだったら寝室や便所の中まで見せ合えたら成功、というわけだ。「うん、うん。なるほど、そういうわけやったんですか。あなたの気持ちようわかります」みたいな。

ところが『松本紳助』というトーク番組は、そういうところを全然狙っていない。今のたとえでいうなら、この番組は相手の家の中に入るどころか、僕の感覚では、玄関先での挨拶みたいなものだと思う。玄関先で会って、「いやあ今日はいい天気ですな」「ほんまですなあ」みたいな会話をしている。そういうトーク番組なのだ。

 ほうほう、じゃあなんでふたりは混ざり合わないのか?松本さんはこうつづける。

ことに紳助さんほど、独自の世界観というか、わかりやすくいえばものすごくがっちがちの自分の哲学を持っている人は珍しい。自分のラインというものが決まっていて、絶対にそこから出てこっちへ入ってくるということはないのだ。

絶対にそこから動かない人だから、あの人をトークでどうこうするというのは非常に難しい。あの人といわゆる雑談みたいなことをするのは、少なくとも僕にとっては、かなり大変なことなのだ。

ここまでいえば、勘のいい人ならもうおわかりだろうが、というかさっきから書いているけれど、僕にとって紳助さんは、とてもやりにくい相手なのだ。

以前ラジオでも松本さんは、紳助さんの存在を野球少年でたとえるなら自分にとっての王・長島だといっていた。それくらい憧れる存在であり、すごい人なんだと。松紳を見たらわかるけど、松本さんは紳助さんにすごく気を使っているシーンが多い。

ほかの番組でみせる毒づいた松本さんを松紳でみることはない。だから、この番組をきっかけに松本さんの株が上がったという。「まっちゃんってエエやつやったんやなあ」とか「先輩にちゃんと気をつかってるんやなあ」という具合に。

 

じゃあ、紳助さんは松本さんのことをどうおもっているのか。紳助さんは松本さんをこう評している。

ただ、松本もマニアックであることは同じだが、僕とは微妙な違いがある。僕の笑いは、かなり計算されているのだ。僕は計算し尽くして喋っている。しかし、計算して時代に合わせているからこそ、その分だけインパクトが弱くなる。合わせるには、時代の流れを見ながら、そこに自分を持っていかなきゃいけない。その分だけ、コンマ何秒かもしれないが、微妙にタイミングが遅れるのだ。

それでは出会い頭の、強烈なインパクトは生まれない。そこが松本とは違う。あいつの場合は時代に合わせようとしていない。僕とは笑いに対する喜びが違うのだ。僕は時代を読んで、その読みどおりに自分の作った笑いが受け入れられることに喜びを感じてきた。

ところがあいつの場合は、物理学者か何かのように、ノーベル賞でも取ろうとしてるんじゃないかというくらい、純粋に笑いというものを突き詰めていく。

その突き詰める過程で、まるで出会い頭の事故のように、時代にぶち当たったのだ。だからあれだけのインパクトが生まれるのだ。松本の人気は、その科学と時代との衝突が生んだ、ひとつの奇跡なのだ。

計算といえば、紳助さんらしいエピソードがある。

紳助さんは芸能界に入り、いちばん最初にしたことは漫才の教科書をつくることだった。というのも、むかしはNSCのような学校はないし、いまと違って芸人が重宝された時代でもなかったから、芸人に関する情報がなかった。だから、まず漫才の教科書をつくろうとした。

そして、毎日劇場に通い、いまどの漫才師が売れているのか、どういう笑いがトレンドなのかを調べはじめた。具体的には、漫才師のネタをテープレコーダーで録音し、それを何度も聞き、それらを書き起こして、人気の漫才師のネタと売れていない漫才師のネタのちがいを分析したのだ。

いま何が世の中で起きていて、それを分析し、じぶんはどこに向かうべきなのかを考えるということを18歳のときからやっていたのだ。

こう何事も計算するくせがついたのは、自身のまわりの環境がそうさせたのだろう。紳助さんの同期は、明石家さんまオール巨人阪神。24時間営業のような明るさをもつ明石家さんま、漫才師としての力がばつぐんだったオール巨人阪神。かれらを見たときに、ヤツらには勝てないと思ったという。人気者はさんま、漫才はオール巨人阪神、じゃあじぶんはどうするべきなのか?紳助さんは考えた。

そこででた答えが「おれは悪役でいくしかない」ということだった。そこからツッパリ漫才といって、つなぎを着て、頭をリーゼントにして、ヒールキャラとして確立していったという。

自身の感性を最大限に研ぎ澄まし、爆笑の渦を起こす天才と、時代の流れをいち早く読み、そこに自分の役割をみつけ、絶対的な地位を確立する天才。ふたりの天才がトークを繰り広げる松紳松紳自体はわりと古い番組だけど、いま見ても笑うし、おもしろい。

こういうことを知ったうえで、松紳をもういちど見てみると、また違ったたのしみ方ができるかもしれない。

松本紳助 (幻冬舎よしもと文庫)

松本紳助 (幻冬舎よしもと文庫)