読書めも

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笑いはこうして生みだされる。松本人志のあたまのなか《松本人志 仕事の流儀》

松本人志 仕事の流儀(ヨシモトブックス)

松本人志 仕事の流儀(ヨシモトブックス)

 

松本人志 仕事の流儀』読みました。NHKプロフェッショナルで放送しきれなかった部分をたした内容となっています。普段のバラエティではぜったいに見ることができない松本人志の笑いに対する考えや姿勢などが書かれていて、すごくおもしろい。

他人の目でしかものを見られない日本人の性

あたらしい漫才のスタイルを確立し、次々と「笑い」をつくっていった松本さん。その活躍はテレビの枠を超えて、映画にも挑戦しました。2007年に『大日本人』2009年に『しんぼる』2010年に『さや侍』2013年に『R100』を撮影。

しかし、これら4作品に関しては周りからの評価が低いようにみえます。「松本はおわった」「松本の笑いはむずかしい」そんな声がネット上では飛び交っています。

このような世間の評価に対して、松本さんはどうおもっているのか?

特に、映画好きの人ほど、ああだこうだといろいろ文句を言っていたみたいです。いったいなんなんですかね。

正直に言うと、僕には「映画を撮っている」という意識はまったくないんです。基本的に「すでにあるものとは違うものを作りたい」、そして「自分の表現したいことをぶつけたい」と思って撮ってるだけなんで、ふだんから「映画、映画」って騒いでる映画好きの人たちには、逆にあんまりピンと来なかったかもしれません。

でも、僕が最も情けなく思ったのは、ほとんどの人が、自分で映画館に足を運んでわざわざお金を払って観ようとした映画を、結局は「自分の目」で観なかったということなんですよね。「マスコミでこれこれこう紹介されてた」とか、「ネットのレビューで誰かがこう書いてた」とか、実際に観る前から「他人の意見」を頭に詰め込みすぎていて、結局「他人の目」で観てきただけなんですよ。

じぶんの作品が受け入れられなかったことに対して「なんで世間のヤツらはコレがわからへんねん!」とでも言うのかなあとおもっていたら、まったくちがう答えが返ってきたので、驚きました。

かくいう自分も松本さんの映画を一本も見たことがない。しかも、すでにまわりからその作品のネガティブな評価をたくさんみてしまったので、これから先、松本さんの映画をみる機会があっても、ぼくも自分の目で観れる自信がありません。

まっちゃんが今もなお芸人をやり続けてる理由

僕が映画を作る動機は、ひとことで言い尽くすのはちょっとむずかしいんですけど...でも、ひとつだけはっきり言えるのは、これはお金もうけのためには絶対にやってない、ということですね。

あのね、これは秘密でもなんでもないから正直に言ってしまいますけど、お金のためだけだったら、僕、もう働かんでもええんですよ。明日から全部の仕事を辞めて、嫁と娘といっしょに豪華客船で世界一周に出かけたって、なんにも問題ないですもん。

じゃあ、なんで僕がこの仕事をやり続けてるのかと聞かれたら、その答えはもう100パーセント、サービス精神なんですよね。かっこつけたいだけなら、今のタイミングで辞めたほうが、ずっとかっこええじゃないですか。ある意味、山口百恵ちゃんみたいですし。辞めた後も、ずっと伝説みたいに言ってもらえるでしょう。

お笑いの賞は総ナメした。M-1キングオブコントもつくった。紅白の裏番組にもなった笑ってはいけないシリーズも生みだした。そんな松本さんがなぜいまも「笑い」の第一線にいつづけるのか?

その答えが、「サービス精神」。これは松本さんの笑いにおける役割も影響しているんじゃないかとおもいます。

松本さんは言うまでもないが、笑いではボケ担当。ボケというのは、極端な話ツッコミはいらない。つまり、ひとりで相手を笑わせることができるわけです。だからこそ、次々とおもしろい話を自分の頭のなかから提供しようとする姿勢ができる。それが松本さんのいうサービス精神ではないでしょうか。

一方でツッコミというのは、ボケがあってこそ成り立つ役割です。だから、相手の話をきくことが大前提。でも、すべての話にツッコめるかというともちろんそうではない。だから、ツッコミにはある種相手の話をばっさりと切る能力が求められる。

僕が思う「仕切りのうまい人」の条件と言えば、「踏ん切りの強い人」ですね。もっとわかりやすく表現するなら、無駄だと思ったことをすっぱり切り捨てられる人間ということです。

たとえば、僕の相方の浜田なんかは、まさにその代表ですよ。テレビのトーク番組の司会をいっしょにやってるときでも、自分が面白くないと思ったゲストに対しては容赦なく、平気でバッサバッサと切ってしまいます。

いったんどこかで「今日は、こいつ、ないな」と見切ったら、残りの時間は、もう冷たいもんです(笑)。「しゃべりたかったら勝手にしゃべって、終わったら声かけてえな」みたいな顔を、ずっと平気でしてるじゃないですか。

僕なんかは、こう見えても「こっちのゲストはあんまりしゃべってないから、もうちょっと立たしてやらなあかんな」とか、「あっちのゲストばっかりに行きすぎてるんとちゃう?」とか「こいつのよさも、もうちょっと引き出してやらなあかんな」とか、頭のなかでめっちゃめちゃ考えてるんですよ。

怒りが熟成し、笑いとなる

でも、複雑なのは、芸人って、そういうめっちゃ腹が立つような状況のなかからも、笑いを引きだしてしまえるんですよ。腹を立てている瞬間は、もちろん、100パーセント怒ってるんです。「時間がたてば、これも笑い話になるかなぁ」だなんて、微塵も思ってないんです。

ところが、それが1週間とか2週間とかたってくると、そこに寝かしていた部分っていうのが、なんか「熟成」されていくんですよ。それで、「この怒りを、ほかのやつらにどう伝えてやろうか!?」って考えはじめると、だんだん「こんなんとこんなんを足して...」とか、「これってまるで、こんなんといっしょやん」とかになっていって、気がついたら「すべらない話」になってる...ってことが、けっこうあるんです。

芸人さんの頭のなかをのぞいている感じで、笑いが生みだされるプロセスが書かれていて、すごくおもしろいです。

そして、「すべらない話」がどのように誕生したかについてすこし触れられています。あぁ、なるほど。笑いとは、怒りや悲しみがベースとなっていて、それをどう伝えるかが試される。だから、松本さんのすべらない話をするときなんかは、声をものすごい張ってしゃべってるのかなあとおもいます(「考えられへん!!!!」って声張り上げてよく言ってるしw)。

 

にしても、2013年に松本さんの著書「遺書」を読んだのがなつかしい。あのときは、ダウンタウンきらいって感じだったんですが、いまはそんなこと微塵もおもわない。いつのまにやら「ダウンタウン」「松本人志」のことがすきになっていました。