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【書評】両手を奪われても―シエラレオネの少女マリアトゥ

両手を奪われても―シエラレオネの少女マリアトゥ

両手を奪われても―シエラレオネの少女マリアトゥ

 

 最近通っている図書館に、YA(young adult)というくくりの本棚があります。young adultというのは12歳〜18歳の若者のことを指し、主に学生向けの本が置かれています。そのYAの本棚をぼーっと見ていたら、この本のタイトルと「シエラレオネ」の文字が気になって、読んでみることにしました。

 思えば、シエラレオネについて気になりだしたのは、映画「ブラッドダイヤモンド」が放映されたときくらいから。ぼくが高校一年生のときです。映画自体は見たことはなかったのですが、映画を見た母からこんなことを教えてもらいました。

シエラレオネっていう国は、アフリカにあって、平均寿命が短くて、内戦で両手・両足がないひとがいるんだ」と。

 当時のぼくにとっては衝撃的で、「両手・両足がないってどういうこと?どんな国なん。」とおもったのをよく覚えています。

内容と感想

 主人公であるマリアトゥは、シエラレオネの首都フリータウンから遠く離れたマグボロウ村に生まれます。1998年、マリアトゥが12歳のときに内戦の反乱軍によって村を襲撃され、両手首を失います。なんとか一命をとりとめるものの、すぐに赤ちゃんお腹に男児がいることがわかり、出産。しかし、赤ちゃんは生後10ヶ月で栄養失調により亡くなります。

 このように経歴をみるだけでも、凄まじい。実際に本書を読んだら分かりますが、マリアトゥの村に反乱軍が襲撃してくるときのシーンは息をのむし、読んでいてキツかった。

彼はわたしの前に歩いてきた。「ここから出て行く前に、罰を選んでもらう」

 

「選ぶって、何を?」わたしは、おずおずと言った。押さえきれない涙が、頬を伝う。

 

「どっちの手から切って欲しい?」のどのつかえを押しのけて、叫び声がせり上がってきた。「いやあ!」大声で叫んだ。サッカー場目指して走り出したが、なんの意味もなかった。年長の反乱兵がわたしを捕まえると、その太い腕でわたしの腹を抱え込んだ。そして、子ども兵士たちの方へわたしを引きずって行くと、彼らの前にわたしを投げ出した。

 マリアトゥの両手首を失うシーンは、ほんとうに目をそむけたくなる(そのシーンは割愛)

 ところで、なぜ反乱軍は捕らえた人々を殺さずに、両手もしくは両足を切るような行為をするのでしょうか?反乱軍のひとりはこう答えている。

「大統領のところに行って、おれたちが何をしたか見せるんだ。これでもう、おまえはやつに投票できない。大統領に、新しい両手をくださいって頼んでこい」

 彼らなりの正義を大統領に突きつけるために、そういった残虐な行為をおこなっていたのかもしれない。その行為の意図について検索をかけてみたところ、あるブログではこのように説明されていました。

 何故、殺さないで、手足の切断を行なうのかと言うと、それは自殺を考えさせるほど、人に苦痛と屈辱を与えるためだ。切断の痛み以外に、日常生活でのあらゆる行為の不便、それに、健常者で無い為に向けられる、好奇心、同情、哀れみ、侮蔑を死ぬまで与え続ける。顔を洗う、歯を磨く、用を足す、服の着替え、御婦人の月一度の用事、紐を結ぶ、食事、髪を整える、性行為全般、体を洗う・・・。

 

これらのなんてことがない日常的な動作が困難或いは不可能になる。誰かにやってもらえばいいだろうと思うかも知れないが、では、それを付きっ切りで、24時間、365日、死ぬまで面倒をみれるのか?

 

まあ、一回位はやってくれるかも知れないが、それを無報酬で死ぬまで面倒をみれる人はいないだろう。もし出来ると言える人は嘘つきか、偽善者である。アフリカの処刑、刑罰で特異な点は人体の切断である。首、手、足、性器などを切断する。もし生き残れても、自殺を考えるほど苦痛と絶望と屈辱を与え続ける、その人間が死ぬまで。

古書蒐集日記:腕を切断されるか、今ここで死ぬか、どっちかを選べ『シエラレオネの衝撃』前編より

 

 この本は読んでいて決して楽しいとは言えないし、割と文章も長め。でも、シエラレオネの混乱期の被害者であり、子も手も失った彼女が年を重ね、カナダとイギリスに行くことができ、そこで学位を得て、さらには大統領と謁見し、ユニセフ特別代表として声をあげるまでの姿を垣間見ることができます。

 国際協力に携わるひと、興味があるひと、シエラレオネについて知りたいひとはぜひ。

ブラッド・ダイヤモンド [DVD]

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 シエラレオネを舞台にした映画。ブラッドピットが主演。