読書めも

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殺人犯から届いた検察官への手紙《裁かれた命 死刑囚から届いた手紙 堀川恵子》

 『死刑』それは我が国の刑法のなかで最も重い刑罰である。2016年には3人に死刑判決が下され、3人の囚人に死刑が執行された。

 

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引用:(アムネスティ日本調べ

 

「他人の命を奪ったのだから、代わりに自分の命を差し出す」というロジックに従うならば、死刑制度があるのは当然だ。

しかし、本書の登場人物であり、元検察官である土本武司さんはこのわかりやすいロジックに従うことを大変危険だという。なぜなら、昨今起こる事件はこれまでの常識では考えられないことが起きているからだ。

2000年代に入り、附属池田小事件や土浦連続殺傷事件など、自ら死刑を望んで罪を犯す者が現れた。刑罰は法に背いた者に対する制裁なのに、それをわざわざ受けるために犯罪に手を染める。いったいなんのための刑罰なのかと思わされる。

附属池田小事件の加害者の男は裁判で反省の色を見せず、自らの死のために児童8人を無差別に殺害したと口にした。そして、死刑確定からわずか一年後に彼の死刑は執行された。

附属池田小事件の男が死刑となった後に、遺族の方々が「死刑執行まえに男からの謝罪が欲しかった」と新聞にコメントを寄せた。このことに対し土本さんはこう考える。

 

死刑というのは、命を奪うこと、つまり本来なら神様しかしてはいけないということを、法の下の名において人間がやっているわけですから。それは単なる謝罪という次元を超えた最大の償いなんです。命を差し出すのだから、これ以上のことはない。それに対して謝罪してほしかったというのは本来、筋が通らない話です。それほど死刑というのは重いものであるはずなのに、多くの人はそれを理解していない。

 

たしかに「他人の命を奪ったのだから、代わりに自分の命を差しだす」というロジックに従うならば、加害者が被害者に対して謝罪するという行為は不要である。

しかし、自分の家族や恋人が殺された場合「死刑が確定されたから、謝罪はいらないです」とほとんどの人は言わないだろう。加害者に対して憤りや憎しみという感情が生まれるはずだ。

上記の引用部分だけを見ると、「元検察官のくせに土本は犯罪者に肩入れするのか!」と思うかもしれないが、そもそも土本さんは死刑肯定派である。常に被害者の立場に立って発言し、法務大臣が死刑執行のサインを渋れば、職務怠慢であると批判してきた。

そんな土本さんがなぜこのように死刑について考えるのか。それは土本さんに届いたひとつの手紙がきっかけだった。

 

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙 (講談社文庫)

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙 (講談社文庫)

 

 

『裁かれた命』を読んだ。本書は土本さんに届いた一通の手紙からはじまる。

 

1966年、検察官である土本武司のもとに一通の手紙が届いた。差出人は数ヶ月前に土本が死刑を求刑した死刑囚からだった。自分が死刑台に送った者からの手紙。『怨嗟』のこもった手紙か『助命』を求める手紙だと思い手に取ったが、そこには土本の心を激しく揺さぶることが書かれていた。本来、決して交わることのない検察官と死刑囚、こうして2人の文通がはじまったーー。

 

いったい手紙の中身はなにが書かれていたのか、またこの手紙がなぜ土本さんに大きな影響を与えたのか、そのまえにこの死刑囚が起こした事件について順に追っていくことにする。

1966年、東京都国立市内の住宅地にて強盗殺人事件が発生した。被害者は40代の主婦。土本さんは当時検察官6年目だったが、これまで遭遇したことがないほどの凄惨な現場だったという。

捜査当初こそ犯人逮捕は難航したが、土本さんの活躍により犯人はあっけなく逮捕され、取調室へと連行された。

取り調べを担当した土本さんは犯人である長谷川武の顔を見て驚いた。なぜなら、あの凄惨な事件を起こした凶悪犯とは思えないようなあどけなさが残る22歳の青年で、取り調べに対してもすべて正直に答えていた。

強盗殺人の量刑は「死刑または無期懲役」だ。土本さんはこの青年を自分の手で死刑台に送るのかもしれないと思いながら、取り調べを淡々と進め、送検手続きを行った。

当時土本さんが配属された支部では犯罪が多発しており、365日働いているくらいハードな日常だったという。やがて、長谷川の起こした事件のことも忘れかけていたそんなときに彼からの手紙が届いた。

 

土本武司殿

新春のお喜びを申し上げます。検事さんには其の後、お変わりないものとお察っし致して居ります。また其の節は御指導それに御心配して頂き誠に有難う御座居ました。検事さんにはすっかり御心配して頂き済まないと常々思って居ります。僕の裁判の近況をお知らせするのでしょうが、現在の状態ですとこうやって文章を連ねて行けば行く程、何故かしめっぽくなる様な気がしますから、それに新年早々の事ですし、はぶかせて頂きます。唯、体の方だけは検事さんに負けないくらい心身さかんと偽りなく書く事が出来ます。それでは検事さんも幾重にもお大事に。

 

自分を死刑台に送った検察官に対して「お世話になった」だなんて不思議でしょうがない。捉え方によっては嫌味に捉えることもできる。土本さん自身も、この手紙が届けられたとき相当困惑したという。長谷川に対してなにか特別なことをした記憶はなかった。

ただ、長谷川武が近い将来死刑囚になるかもしれないと思い、彼の言いたいことをしっかり聞くことを徹底したという。さらに、長谷川の供述のメモさえ取らなかったときもあったという。

通常、取り調べのときは隣に事務官を横に座らせて記録を取らせるのだが、その事務官にさえ手を止めさせて話を聞いたときもあった。

そのことに対して感謝をしたのかわからないが、長谷川は土本さんに対して手紙を送った。

こうして土本さんと長谷川は文通をはじめた。その文通は長谷川武が処刑される前日まで何度も交わされた。そして、そこには『怨嗟』や『助命』のような文言は一切なかった。

 

今まで犯罪者の更生なんてありえないと思っていた。しかし、この本を読んで不確かな未来ではあるが、犯罪者の更生はありえるのではないかと思った。

死刑判決が下されても、獄中で被害者の冥福を祈り続ける長谷川武。それはもう死刑判決を逃れようとする一種のパフォーマンスではなかった。

死刑囚は将来がない人間だ。将来のある人間ならば、反省し、自らの罪を悔いることで、次の機会に生かすことができる。しかし、将来のない人間に反省は無意味だ。

にもかかわらず、自身の犯した罪と向き合い、自分にとっての贖罪の答えを最後まで探そうしていた。

それは土本さんとの手紙のやり取りでもわかるし、長谷川の弁護士となった小林健治さんとの手紙のやり取りのなかでわかってくる。そんな姿をみていると、彼をここで殺してはならないと強く思う。

いやいや、長谷川武はひとりの人間を殺したのだから、死刑になって当然でしょと思うかもしれない。

だが、2人の死刑囚がいたとして、死ぬ直前まで更生しようとあがく人間と死ぬ直前までなにも考えずに過ごす人間は果たして同じなのだろうか。同じ人殺しであっても、前者と後者には明確な隔たりがあるとしかぼくには思えない。

長谷川は小林さんとの手紙で自身の罪に対してこう述べている。

 

ぼくは、罪と言うものは何だろう、と考えました。そして罪と言うものは、いかなる方法をもっても、いかなる処刑をもっても許されるべきものではないと知ったのです。

刑法には、"何何の罪は、何何に処す"、"これこれの罪はこれこれに処す"......

これらだって、仮に定めたものであって、それだけの刑罰を課したところで、過去の罪は消えるものでないと知ったのです。それこそ、生涯つきまとい苦しめられるものが罪の大きさかと思うのです。ぼくが今、一番残念に思うのは、ぼくのやったことが、ぼくのすべてをもっても償いきれない無念さなのです。ぼく一人では済まされなかったことなのです。

 

これは死刑されるすこし前に書かれた手紙である。なぜ、犯罪に手を染めるまえにこのことに気づかなかったのか。そう言いたくなる気持ちがグッと出てくる。そして、ただただ悔やまれる。なぜ犯罪を犯したのかと...

 

本は一回読んだら気が済む方なんだけど、この本は何度も読んでしまった。このブログを書いている今でも、もういちど読もうかなと思えるほどの良書だった。