関ヶ原の戦いで石田三成はなぜ負けたのか?《関ヶ原 司馬遼太郎》
内容紹介
感想
天下分け目の関ヶ原の戦い。秀吉が亡くなった2年後にそれは起こった。家康の天下取りは、ここからはじまったと言ってもいいだろう。
子どものころから不思議だった。なぜ、人数が多かった西軍が負けたのか。秀吉に従っていた大名たちがいとも簡単に東軍の家康についたのか。なぜ石田三成は関ヶ原の戦いで家康に勝つことができなかったのか。
そんなことをぼんやりとよく考えていた記憶がある。そんな疑問が本書を読んで、ようやくわかった気がする。
司馬遼太郎さんが書いた「関ヶ原」を読んだ。本書は、西軍の大将である石田三成と東軍の大将である徳川家康を主人公とし、関ヶ原の戦いが終わるまでを描いた歴史小説だ。
正義を重んじ、どんな悪行も許さない三成。腰が低く、決してじぶんの腹の中は見せない家康。かれらが関ヶ原の戦いが起こるまでどのような手を打ったのか、どのような戦略を立てたのか、本書の見どころはそこだろう。
見どころはそこだけではない。関ヶ原の戦いは登場人物がとにかく多い。毛利輝元、宇喜多秀家、安国寺恵瓊、小早川秀秋、島左近、島津義弘、福島正則、加藤清正、前田利長、伊達政宗、黒田長政、藤堂高虎。
歴史に名を刻んだ大名たちひとりひとりの視点が描かれており、それらが次々と切り替わっていく。かれらがどのような考えをもって関ヶ原の戦いに参加したのか、なぜ西軍に味方したのか、なぜ東軍に味方したのか、そんなことがわかるようになっている。
西軍の大将として4万の軍勢を率いて大阪城に入るも、関ヶ原には出陣しなかった毛利輝元、そんな輝元に西軍に味方するよう説き伏せ、外交官の役割をはたした安国寺恵瓊、利家亡き後、自家を守るために家康に味方した前田利長、秀吉にかわいがられたが、家康にうまく説き伏せられ東軍に味方した福島正則、加藤清正。
それぞれの大名たちの思惑が絡み合ったこの戦いを制したのはみなさんご存知の通り、徳川家康。なぜ彼は勝利を手にすることができたのか。
それは、家康の人望はもちろん、関ヶ原の戦いが起こるまでの戦略などもそうだが、なによりも石田三成の未熟さが西軍の敗因だとぼくは感じた。
三成は何が未熟だったのか。彼の側近であった島左近は三成の人物像についてこう述べている。
「殿は人間に期待しすぎるようですな。武家はこうあるべし、大名はこうあるべし、恩を受けた者はこうあるべし、などと期待するところが手きびしい。人間かくあるべしとの理想の像が、殿のあたまにくっきりと出来上がっている。殿はそれをご自分にあてはめてゆかれるところ、尋常人(ただびと)とは思えぬほどにみごとでござるが、さらにその網を他人にまでかぶせようとなされ、その網をいやがったり、抜け出ようとしたりする者を、犬が吠えるようにはげしく攻撃あそばす」
三成は自身の理想が強く、それを相手にも求めることによって、不用意に敵を増やしていたのだ。ある意味、清廉潔白ですばらしい人物でもあるが、関ヶ原の戦いにおいてはそれが裏目にでてしまった。
事実、加藤清正や福島正則といった歴戦の猛者たちは石田三成が憎く、家康側に味方したところが大きい。
本書を読み終えたとき、三成はなぜ負けたのかそれがきっとわかるだろう。
読書めも
石田三成の誤算
(豊臣家の命とあれば、水火も辞すまい)と、三成は、盛親をそうみていた。三成の判断はつねにそうである。豊臣家の命、という効能を過大に思っていた。家康とその徒党以外のどの大名も、秀頼のために死をも賭すると信じていた。三成は戦国の離合集散のなかで叩きあげた男ではなく、秀吉の秘書官として大名に成り上がった官僚育ちだけに、自分自身が秀吉に随順したように他人もそうするものと頭から思っていた。
追記
おなじはてなブログをやっている 白兎 (id:daumaneko) さんが「関ヶ原」について上手にレビューを書いてるので、こっちも合わせて読むといいよ。