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【書評】スクールセクハラ 池谷孝司

スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか

スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか

 

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 すこし重々しく感じる表紙で、キャッチャーなタイトルにひかれ、読んだ。スクールカーストではなく、スクールセクハラ。文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中高校の教師はわずか3人。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の109人に達している。その被害者は教え子が半数を占める。ある日とつぜん教師の質が落ちた、と考えるよりも、ずっと見過ごされてきた問題と考える方が自然だとおもう。

 こういったわいせつ事件が起こる要因のひとつに、教師が持つ権力を教師自身が自覚していないケースもあるという。

もちろん、多くの教師が真面目に働いていることは言うまでもないが、授業に熱心で、部活動で実績を上げる教師が陰で悪事を働くこともしばしばある。権力を悪用する危険は常に多くの教師に存在する。

 

だが、私が取材した加害者たちは自分が権力を悪用しているなどとは考えもせず、権力を持っていることにすら気づいていなかった。それどころか「対等な恋愛関係だと思った」とまで言う。(略)

 

子どもはおかしいと感じても、なかなか大人に「ノー」と言えない。ましてや教師に「ノー」と言うのは相当な勇気がいるのに、そこに気付かない教師と子どもの間には大きな溝がある。 

 本書で登場する教師は、実に様々だ。自身が持つ権力を悪用した教師もいれば、権力を使っていたことに気付かない教師も。また、校長や教頭がセクハラを行ったケースも取り扱っているし、学校がもみ消そうとした事例もある。読んでいて憤りを感じる瞬間が多々あった。

 ところで、セクハラは訴えづらく発覚がしにくいという特徴がある。なぜだろうか。体罰と比較するとわかりやすいかもしれない。わいせつは体罰に比べて、密室の被害が多く周りが気づかないことが多いということだ。本書を読めばわかるが、加害者が否定すると教育委員会や学校側が「事実が確認できない」として処分を見送ることが多い。

 またセクハラに対する厳罰化が進んだため、かえって「やっていない」と言い張る加害者が増えたとのこと。認めれば地位を失い、身の破滅を招くからだ。

 そして、こういうセクハラや体罰が起こる背景に、日本がとても暴力に寛容な社会であると述べていたのが興味深かった。

もともと日本はとても暴力に寛容な社会だと言えるだろう。男から女へ、大人から子どもへ、上司から部下へと、強い者から弱い者への暴力が放置され、公的な場の暴力ですら、あまり大きな問題にされないこともある。ドメスティック・バイオレンス(DV)も、虐待も、パワハラも根は同じだ。

 

しかも、強者の側は、暴力を振るう方が悪いとは考えない。暴力を振るわれ方にこそ問題があって「言っても聞かないから仕方ない」となる。むしろ、「こいつのことを思って」「こいつのために」と被害者に恩を着せるような奇妙な発想で暴力が振るわれることすら珍しくない。

 

その分かりやすい例が、学校での体罰だ。体罰を振るうとき、大半の教師は「子どものために」と考えるのだろう。自分が権力を使って、強い者から弱い者に暴力を振るうのだ、と意識する教師はまずいない。この点に気付いていないことが大きな問題なのだ。

 

 さいごに、著者がスクールセクハラというタイトルに決めた理由について紹介して締めようとおもう。

「スクールセクハラ」という言葉はもっと世に広まってほしいと考えている。だからこの本のタイトルに付けた。言葉は武器だ。どう呼んでいいか分からない「困った出来事」に名前を付けることは、そこに問題があることを当事者や周囲の人たちに気付かせる効果がある。目の前にあるのに見えず、素通りしていた問題を見えるようにする効果がある。(略)

 

言葉が広がることは、それまで「たいした問題ではないだろう」「自分には関係ない」と思っていた多くの人に関心を持ってもらって、原因に立ち向かい、解決に向けた対策を打ち出すことにつながる。

  著者がタイトルに込めた想いとともに、この問題が多くのひとに知ってもらえることをぼくも願っている。