読書めも

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【#74】ジャッキーロビンソン物語 リチャードスコット

ジャッキー・ロビンソン物語 (ちくまプリマーブックス)

ジャッキー・ロビンソン物語 (ちくまプリマーブックス)

 

 

◎本書の内容

ジャッキー・ロビンソンと言えば、メジャーリーグで初めて台頭した黒人選手です。また引退してからも、黒人の民権運動を進め、キング牧師との交流もあり、彼の政治活動の後押しも行いました。

また、4月15日はジャッキー・ロビンソンデーと制定され、MLBのすべての選手が彼の背負っていた背番号「42」を身につけてプレーをします。選手としての成績は、ベーブルースやハンクアーロンなどが残した選手に比べるとどこか物足りない成績ですが(比べなくても十分偉大な成績)、記録以上に多くの人々の記憶に残る選手だったのは間違いないでしょう。

本書の内容ですが、ジャッキー自身が書いた伝記ではないので、彼が当時何を感じて、どんな想いを持っていたか?という彼自身の感情や感覚には触れる事はできません。

ですが、この本はジャッキーロビンソンの事だけでなく、黒人選手がなぜなかなか台頭できなかった理由やその背景、また野球の歴史なども書かれているので、黒人と野球の歴史に触れる事ができるのが見所です。

ニグロリーグが世間からほとんど注目されていないことも、選手たちをがっかりさせた。才能ある選手でも、何年間プレーしながら、かれらにふさわしい評価と勝算を受けることはなかった。

 

たとえば、1940年代までプレーを続けたジョシュ・ギブソンは、あの伝説的な選手ベーブ・ルースよりも多くのホームランを打ったかもしれないのだが、(ニグロ・リーグはいつも試合記録を保存していたわけではないから正確なところは分からない)野球ファンの間でもギブソンの名前を知っている人は少ない 

ニグロリーグとは当時あった黒人だけのリーグのことです。ジョシュ・ギブソン以外にも黒人の選手の中で優秀な選手はたくさんいました。

でも、当時は黒人というだけでメジャーリーグという舞台には上がる事ができなかったのです。そんな理不尽なことは野球の世界だけではありません。この時代、黒人はひどい差別を受けていました。黒人用のトイレがあったり、黒人専用のバスの座席があったり...

アメリカで生まれたスポーツ、野球の原型が形作られたのは、1845年だと言われている。この年、ニューヨークに住んでいたイギリス系アメリカ人のアレグザンダー・カートライトという青年が、タウンボールという球技(これはイギリス生まれの球技、ラウンダーズから発展した)をもとに、現在の野球のルールの基礎を作り、同時に、ニッカーボッカーズ野球クラブというチームを結成したのである。

 

以後野球はニューヨークを中心に発展し、東部の白人青年たちのあいだに広まっていく。野球が全米に広まるきっかけとなったのは、南北戦争である。南軍、北軍の野営地や前線の後方などで、様々な改装や地方の出身の兵士たちが、戦闘の合間の退屈をまぎらわすレクリエーションとして、野球という新しいスポーツを楽しんだのである。そして戦争が終わると、それを各々が故郷に持ち帰りその面白さを伝えたという

野球の起源が1845年ならば、168年の歴史が野球にはあるわけです。また、南北戦争後に、今の2リーグ制(アメリカンリーグナショナルリーグの事)が発足したわけですが、その前に黒人選手が何人か野球を行っています。

ですが、彼らは白人の選手によってリーグから排除されます。つまり、ジャッキーロビンソンの前にもMLBには黒人選手はいたのです。ところが、彼らはジャッキー・ロビンソンのように黒人選手の台頭の流れを作る事はできなかったのです。

だが、同時に、大リーグが社会的諸条件に恵まれない白人青年に大きな成功をつかむ機会を与えていたことも忘れてはならない。1920年代、ニューヨーク・ヤンキーズの選手としてアメリカ最大のスターとなったベーブ・ルースは、自伝の中でこう書いている

アメリカという国のいちばん偉大なところは、人がどんな境遇に生まれてこようが、家がなかろうが、また友達がいようといまいと、一人で人生のチャンスをつかむことができるという点だ。僕はまさにその典型的な例なのだ。

ベーブ・ルースは、豊かではない社会階層の人々が多く住んでいた港町ボルティモアに貧しいドイツ系移民の子孫の息子として生まれたが、自分の実力と努力によって大スターの地位を築いた。それはまさにアメリカン・ドリームというのにふさわしい成功物語である

黒人の選手が排除されてきたというのは拭えない事実である。

だが、一方で白人選手にとって大リーグはアメリカンドリームであり、そこには「欲しいモノは自分で掴め!」というメッセージを発信している実力主義という厳しい世界であった事も同時に事実なんです。

ロビンソンの大リーグへの登場は、当時のアメリカに大きな驚きを与えた。1950年代から1960年代にかけて黒人解放運動に独自の展開をもたらすマルコムXは、1947年には押し込み強盗を働いたかどで、マサチューセッツ州刑務所に入っていたが、彼は自伝の中でこう語っている。

ジャッキー・ロビンソンが、ドジャースのメンバーとして抜擢された1947年の4月のある日、刑務所中にわきたった興奮は今だに忘れられない。当時私はジャッキーロビンソンの熱狂的なファンだった。彼が試合に出場している間、ラジオに耳をくっつけ離さなかった。そして、どんな試合でも、最後の彼の打席が終わって、彼の打率を計算したあとでなければ試合が終わった気がしなかった

マルコムXの言葉は、ロビンソン登場の衝撃を見事に伝えるが、当時、彼のようにラジオにかじりついてロビンソンのプレーに一喜一憂していたアメリカ黒人が無数にいたことは創想像にかたくない。

~略~

ロビンソンは、まず打撃においては、ラインドライブを多く打つ打者として観衆を魅了した。外野に飛ぶ流線形の打球は、当時のアメリカ黒人にとっては、新しい希望の象徴だったのだ。彼はまたチャンスに強いバッティングによっても、ファンの心を掴んだ。そして、守備においては、ロビンソンは10年間の選手生活でいろんなポジションについたが、やはり、1948年から1952年まで守っていた二塁が、本職だと考えられる。

~略~

ロビンソンの魅力を語る場合に、彼のセンス溢れるベースランニングに触れざるをえない。ロビンソンは盗塁王に2回か輝いているが、その時でも盗塁自体はそう多くない。彼がベースランナーとして異彩を放ったのは、相手守備陣の一瞬の隙をついて先の塁まで進もうとする姿勢、果敢なリードによって相手投手の集中力をかき乱してしまう動き。試合の流れを変えてしまうような、ここぞという時の大胆な盗塁など、によってである。これらのプレーは、ニグロリーグ独特の「ずるい野球」を特徴づけていたのである。

~略~

このように、ロビンソンは攻守走の三拍子そろった理想的な選手であったが、記録の面においては、他の大リーグ史上に残る一流選手と比べると、抜群の数字を残しているというわけではない。作家のロジャー・カーンが言ってたように、ロビンソンは記録が示すよりも偉大な選手であり、そういう意味では、「記憶に残る」タイプの選手であったといえる。

上記の文章は、ジャッキーの魅力を文章で表したものです。でも、ぼくはジャッキーの魅力が文章では分からないんですよね。

だって、彼のどんなプレーが人々を惹きつけたのかを具体的にイメージできないんです。実際のプレーを見たわけではないですしね。

だから、このジャッキーの映画みたいなのを見たいなあって思ってたら・・・。なんと!42~世界を変えた男~というタイトルで、ジャッキー・ロビンソンの映画があるじゃないですかw

 

 

 


僕にとってこの映画は絶対に見なければならない映画です。なぜなら、本を読んでそれを映像化したものを初めて見たいと思ったから。

今まで、原作を読んで、その映画を見たいと思ったことは一回もなかったんですよね。それを今回初めて体験したわけです。

ですので、野球好きはもちろん、歴史好きの方はぜひ手にとりお読みください。


映画『42~世界を変えた男~』予告編 - YouTube