読書めも

読んだ本の感想をぼちぼち書いてます

【#48】「働きたくない」というあなたへ 山田ズーニー

「働きたくない」というあなたへ

「働きたくない」というあなたへ

 

 

◎内容と感想

山田ズーニーさんの「働きたくない」というあなたへ。読みました。山田ズーニーさんは、元々ベネッセグループにいて、そこで「ほぼ日刊糸井新聞」にて「おとなの小論文教室」の連載が決定し、それが長期連載となりました。その後、フリーランスとして独立した方です。

読み終えての感想ですが、「もう一度読まないといけないなあ」という感じです。この本に何が書いてあったのか?、この本から学んだ事は何?と言われると答えることが非常に難しいです。たぶん、この本に山田ズーニーさんからの強いメッセージが込められてないからだと思う。何か読者にこう感じて貰いたい!というメッセージがあったような印象はなかった。

本書の構成は、山田ズーニーさんの元へ来た読者からの手紙の紹介やそれに対して、ズーニーさんの想いや考えを述べる形式である。だから、多くの人々の想いや考えに触れる事ができるし、ズーニーさんもアドバイスを与えるわけでなく、「こう思うなあ」という程度。だから、本書の全体を掴みにくくしているのかもしれませんね

いくつか印象的だった箇所をご紹介。まずは、ズーニーさんが「働きたくない」と言っている学生に対して自分の意見を述べている箇所から

働きたくないというあなたへ。仕事を持たないというのであれば、それでいいと思うのだが、では、「自由」はどうやって手に入れるのだろう?自分の次なる「居場所」をどう考えているのだろう?

 

就職は、社会と自分を「へその緒」で結ぶ行為であり、就活は、自分のさらなる「居場所」の設計図を引くような作業である。小学校・中・高・大学と、私たちは、ただ箱を乗り換えるだけで、自動的に「居場所」を与えられてきた。入試は大変だけど、入り口のところさえパスすれば、あとは、受け身でいてもずっと自分のイスが与え続けられる。考えれば変な話だ。だが、この先はそうはいかない。卒業したら、次の居場所は、自分でアクションをおこさなければ得られない。「居場所」がないということが、どんなに恐ろしい事か、私自身、38歳になるまで気づかなかった。

 

一言で言って、そこに自由はない。私は、38歳で16年勤めた会社を辞め、フリーの編集者になろうとした。しかし、どの出版社も企画部門は外に出したがらない。フリーのライターは成立しても、フリーの編集者が成立しないと辞めてから分かった。

 

「会社」を辞めた、ただそれだけだったはずだ。しかし、いったん会社の外に出たら、「社会」から干されてしまっていたことに、初めて気づいて動転した。私は、個人として、再びどうやって社会に入っていったらいいかわからなかった。自分と社会は、ダイレクトに「へその緒」でつながっていたのではなかった、ということだ。会社と社会はへその緒で繋がっていた。私と会社は、へその緒でつながっていた。だから会社とのつながりが切れたら、社会からも、自動的に切り離されてしまっていた。

 

思えば、小学校・中・高・大学と、箱が、社会と繋がっていた。チューブを通じて栄養が補給されるように、「へその緒」を通じて、社会から、必要な情報も、信頼も、愛情も与えられ、守られてきた。あまりに居場所を与えられる生活をしてきたので、自分の手で「居場所」を切り開く事に、あまりにも無頓着で生きてきてしまった。

 

だが、いったん居場所を失うと、狭い箱に閉じ込められたように、とたんに「不自由」きまわりない生活になった。~略~もちろん、私には家族もいるし、友人もいる。けれども、人は、家族や友人のように、「好き」でつながっている人間関係だけでは生きれないと悟った。少なくとも自分はそうだ。もっと大きな枠組みでの、人との「絆」が要る。必要とされたり、役に立てたり、貢献したり、協力しあったり、単に好き嫌いを超えたところで、人と人は、つながりあい、影響しあって、生きていける存在なのだと、干されてみて、身にしみて思い知った。

以前、先輩がこう言ってた。「仕事を辞めて家に引きこもって本ばっか読んでいる時に、回りの人に『最近何やってるの?』と聞かれ、いつも「まあ、(特に何もしていないけど)色々やってるよと答えるのが一番辛かった。あの時、俺は、人はどこかのコミュニティーに所属していないと生きていけないんだと思った」これって上記の居場所の話に近いんだと思う。

僕自身も過去に回りの人に「最近何やってるの?」と聞かれ、「(特にどこの学生団体に入るわけでもなく、何をするわけでもなく)まあ色々やってるよ」と答えた事がある。まさに先輩が言っていた言葉とほぼ同義語だ。あの時僕はどういう気持ちでこの言葉を使ったのか?

自分を守りたかったからだ。「何もしていない」という事で相手からバカにされるんじゃないか?見下されるんじゃないか?といった意識があり、それらから自分を守ろうとしたのだ。ひょっとしたら、そういう防衛意識が人間にはあるのかもしれない

 

就職活動をしている大学3年生です。「働くということは、社会とつながるということ」当たり前なはずなのに、全く考えてこなかった。学校に通っていた今までは、親や行政など、自分以外の手によって居場所がすでにつくられていて、用意されていて。改めて考えてみると、自分で作り出した居場所はないんじゃないか?だからこそ、ここからは「社会人」として自らの力で、意志で、居場所をつかんでいく必要がある。でもそれができないんじゃないか?やり方は見えず、不安は募る。ずっと上げ腰据え腰で居場所が準備されてきた自分にとって、どうやったら新しい世界に踏み出していけるのか?

これは就職活動に限った話ではないと思う。受験も自分の居場所を勝ち取りに行くモノである。よくよく考えれば、スポーツの世界も少し似てるかもしれない。例えば、野球なら試合に出られるのは9人である。9つのポジションを争うわけである。

 

「人には、"行く場所"と"帰る場所"が必要だ」。この言葉は、私の経験に照らしても、なんともしっくりと、腑に落ちる言葉だ。(略)~結婚を人生の目標に掲げる男子学生も、玉の輿を目指す女子学生も「帰る場所」を得たい、と言っている。いままで育ってきた家庭は、与えられたものだから、将来は、自分で選び、自分の手で作った「帰る場所」を持ちたいと。それはいいことなんだろう。

 

でも、「行く場所は?」。修造さん(ズーニーさんに手紙を送った人)も、リストラのことを告げた後、理解のあるご両親、弟想いのお姉さん、お兄さんに、強く強く支えられたという。にもかかわらず、いやゆるぎない「帰る場所」がない、という苦しみは、耐え難いものがあった。もがきにもがいたと修造さんは言う。(略)そして修造さんは、このシンプルな結論に行き当たるのだ。

 

「人には"行く場所"と"帰る場所"が必要だ。だが、いまの自分には"行く場所がない"なら、"行きたい場所"を"行く場所"にしよう」

 

(略)思うに、「居場所」という時、多くの人は「行く場所」と「帰る場所」をごっちゃにしているのかもしれない。そして、「行く場所」のない痛みを伝えることは、私や修造さんのように、いったん干された人間にこそできる、やるべきことのような気がする。どんなに素敵な家族で、帰る場所があっても、朝がくれば、それぞれが、それぞれの「行く場所」に向けて出発する。

 

子どもは、学校に。子どもは、学校という「行く場所」が用意されていることのありがたみに気がつかない。自分の手で、この「行く場所」と同等のものを得ようとすれば、同世代の子供達を、あれだけの人数集めるだけでも大変だし、土地と建物を借りるとなるといくらするかわからないし、国語、算数といった、教育コンテンツを充実させるのだって、想像がつかないくらい大変なことだ。

 

(略)男も、女も、大人も、子どもも、生きてくためには「行く場所」が要る。あなたの「行く場所」と「帰る場所」をどう思い描くか?

人は一人では生きていけないし、自分の好きな人達とだけ繋がっていれば生きていけるわけでもない。帰る場所はもちろん自分の心許せる人達がいる温かい場所でもかまわない。でも行く場所は、帰る場所と違ったものにしなければならないのかもしれない。闘いに行く場所と言ったらおおげさかもしれないけど。

 

はじめまして。ズーニーさんの記事を読ませていただいたものです。(略)でも今日企業説明会で頑張ってみたんです。みんなの前で社会人の方に質問をしてみるのってとても緊張のする事でした。「うわー質問の仕方下手だなあ」とか「声うわずっちゃってるよ」とか言われるのが怖かったんです。でもやってみたらすごく爽快感があった。醜くても傷だらけでも這いずってでも前に進んだら自分は成長できるんだ。毛虫みたいに鈍くて気持ち悪い見た目でも、ノロノロ頑張って歩いているのを見るとかわいく見える。そんな自分でありたい。傷ついてでも挑戦する事に意味があるんだ。私は傷ついてでも会社で働きたい。いっぱい傷ついて泣いて笑っておっきな人間になりたい。

日本でもどこでもそうだけど、頑張っている人をバカにする人がいる。そうだよね。頑張る事は決してかっこ悪い事じゃない。別にスマートにやる必要はないし、綺麗にしなくたっていい。泥臭く、ひたむきに頑張る姿だっていい。

 

日々自分を満たしていく生き方とはどうする事でしょうか?何か特別な事をしなければならない、という事ではないと思います。自分がする毎日の小さな仕事の数々を「特別なこと」にしていけばいいんだと思います。退屈な皿洗いも、近所の人とのあいさつも、一体何の役に立つの?と思われる勉強も自分がやる!と決めたら、「特別なことなんだ」と信じてやっていったらいいような気がします。そして「特別なことなんだ」と思い込む以上は、どんな小さな仕事にも自分の名前が書かれているのだと責任を持つ事なんだと思います

読んでて一番響いた箇所です。自分の仕事に誇りを持つという事はこういう事だと思います。自分の仕事に自分の名前が書かれている。だからこそ責任が伴う。そのためには、自分の事を認めなければならない。そんな事を教えてくれた文章です