読書めも

読んだ本の感想をぼちぼち書いてます

ケンドーコバヤシを捨てたお笑い芸人《芸人迷子 ユウキロック》

www.oricon.co.jp

2014年2月、芸歴20年を迎えた漫才コンビのハリガネロック解散を発表した。このことはすぐにヤフーニュースとなり、多くのお笑いファンが解散を惜しんだ。

お笑いが好きなひとはハリガネロックの名を知っているだろう。NSC11期生で「中川家」「陣内智則」「ケンドーコバヤシ」「たむらけんじ」らと同期であるこのコンビを。

 

芸人迷子

芸人迷子

 

 

そのハリガネロックのボケであるユウキロックさんが解散までを綴った迷走録『芸人迷子』を読んだ。

ケンドーコバヤシとの解散、結成半年でABCお笑い新人グランプリNHK上方漫才コンクール優勝、中川家に敗れ準優勝だったM-1グランプリ、漫才に心血を注いだ20年間ーー

帯にピースの又吉さんが「僕が尊敬する漫才師が書いた、血だらけの告白がここにある」と書いているのだけど、まったくもってその通り。ユウキロックさんが芸人として売れるために苦悩しあがく姿が本書から生々しく伝わってくる。

以前、売れない芸人の日常を綴った「プロレタリア芸人」を読んだけど、あの本とはまったく違った。「プロレタリア芸人」の著者である本坊さんは暗闇のなかに光のようなものがまったく見えていなかったが、ユウキロックさんにはまちがいなく見えていた。そして、その光をつかむ寸前までたどり着いていた。

ハリガネロックを結成後すぐに漫才賞レースを席巻、爆笑オンエアバトルでも優勝し、M-1グランプリではずっと追いかけていた中川家の背中がもう見えていた。売れっ子芸人の道なりをまちがいなく進んでいた。

しかし、芸歴20年目を迎えて解散。光が間近に見えていたのにあと一歩が足りなかった。

 

yukiumaoka.hatenablog.com

ユウキロックさんがこの世界に入ることになったのは小学生のときに見た漫才がきっかけだ。

当時は漫才ブーム。「やすし・きよし」「ツービート」「紳助・竜介」らの漫才に魅了され、お笑いにのめり込むことになった。

NSCに入学後、数人の生徒とコンビを組んだが、うまくいかず、その後ケンドーコバヤシさんと出会い「松口VS小林」というコンビを結成。

スキルはないがセンスのあるコバヤシさん、センスはないがスキルのあるユウキロックさん。お互いの足りないところを補ういいコンビだった。

しかし、二年目を迎えるとコバヤシさんがピンでテレビやライブに出演するようになり、風向きが変わる。

コバヤシさんと一緒にいることで売れることを確信したが、自分だけが置いていかれることを恐れたユウキロックさんはコバヤシさんにある日こう告げた。

 

お前とやっていたら、俺は売れない」と。

 

コバヤシさんは必死に説得したが、ユウキロックさんの決意は固かった。

 

背中にコバヤシの視線を感じる。涙が出そうになった。もう一度コバヤシが何かを言えば、振り返って「もう一回やろう」と言っていただろう。コバヤシは何も言わずに、俺を見送った。俺には才能がない。この天才に並ぶため命がけの努力をする。そして、俺は自分の力で売れてやる。何度も止めてくれたコバヤシを振り切って、俺は身勝手に解散した。

 

決死の覚悟で解散をし、すぐさまのちの相方となる大上さんと出会い「ハリガネロック」を結成。

前述したとおり、その後結成半年で関西の漫才賞レースを席巻した。当時ユウキロックさんは死に物狂いで努力をしたという。いったいなぜなのか。

それは、コバヤシさんを自分の身勝手な理由で捨てたからである。そして、もし失敗したら周囲から「才能のあるコバヤシと解散するからだ」と笑われることが怖かったからだ。

 

ところで、関西の漫才賞レースを席巻したにもかかわらず、なぜM-1で優勝することができなかったのか?

それはハリガネロックの漫才が芸人ウケするタイプのものでなかったのが大きいだろう。

 

ハリガネロック」の漫才は、芸人受けするタイプのものでなかった。だが、客票には強い。ピープルズチャンピオンと自認していた。どこでもスベらない漫才をしたい。どの年代にも笑ってもらえる漫才がしたい。だからこそ大衆性に重きを置いた。

 

ハリガネロックの漫才が一般ウケするものだった象徴的なエピソードがある。第一回M-1グランプリでのことだ。第一回は7人の審査員だけでなく、札幌・大阪・福岡の吉本興業の劇場に集まった各100人の一般客も1人1点で審査を行った。審査員の得点と一般客の合計得点が高い2組が決勝ラウンドに進む方式だった(第二回大会から一般投票はなくなる)

ハリガネロックはこの一般客の審査による点数がどのコンビよりも高い得点だった。つまり、一般客の審査のみであれば、中川家に勝っていたのだ。

しかし、M-1は観客にウケれば、優勝できる大会ではない。もちろん観客にウケることは大事だが、なによりも7人の審査員に認められなければならない。

ここがM-1の難しいところだ。観客を笑わせつつ、審査員にもウケなければならない。

高度なボケを重ねることで審査員にはウケるかもしれないが、観客は笑わないかもしれない。一方で一般ウケするような漫才であれば、審査員にはウケないかもしれない。

さらにそれを4分という短い時間の漫才にしなければならない。ユウキロックさんはこのM-1グランプリをこのように評している。

 

「異端な発明家」こそが得られる称号。それが「M-1グランプリ」なのかもしれない。(中略)

そして、すべての「M-1チャンピオン」に言えることは、「個」の実力である。実力のある「個」と「個」がぶつかり、主張しあうからこそ生まれる圧倒的存在感。それがオーソドックを超える。

ネタを作っているほうは作ったネタを高めようという自覚がある。ネタを作っていないほうは受け取った台本をいかに理解し、自分で昇華させ、台本以上のものに仕上げるかに力を注ぐ。各々が自覚しなければ絶対にできない。

 

こうして第一回大会M-1グランプリでは中川家に敗北し、第二回大会では決勝ラウンドに進めず敗退。悔し涙を飲んだ。

とはいえ当時ハリガネロックとしてレギュラー番組を多数抱えていたし、爆笑オンエアバトルで優勝もした。順風満帆なはずだった。

しかし、レギュラー番組は年々減り、2009年にはコンビで出演していたレギュラー番組がすべて終了。とうとうメディアに出演しなくなってしまった。

いまやお笑い戦国時代とよばれるほど芸人の数は多く、さらに大御所とよばれる芸人たちは引退しないため、全国区で売れつづけるには並大抵のことではない。

パンクブーブーはそのいい例だろう。ネタはおもしろく、劇場に行けば絶対にすべらない。M-1THE MANZAIの二冠を達成した唯一無二のチャンピオンだが、レギュラー番組は0(2015年当時)

バラエティ番組で活躍するためにはわかりやすいキャラが求められる。パンクブーブーにしてもハリガネロックにしてもキャラクター性がなかったのが致命的だった。

たとえば、ブラックマヨネーズならば小杉さんがハゲ、吉田さんがブツブツ、というなんともわかりやすいものをふたりが持っている。

そのキャラを持っていることでMCにいじられたり、そのキャラならではのエピソードトークをすることができるのだ。

 

最終的にユウキロックさんは相方である大上さんと解散を決意し、ユウキロックさんは「演芸インストラクター」として、時には漫才のワークショップを子どもに行ったり、漫才の授業を若手芸人に向けて行ったりしている。

一方、相方だった大上さんはヨシモトを離れ、構成作家やMCとして活躍している。今後ふたりの活躍を期待している。

 

twitter.com

twitter.com

31歳で胃がんになったニュースキャスター《未来のことは未来の私にまかせよう 黒木奈々》

ameblo.jp

元キャスターで現在闘病中の小林麻央さんがブログで、25日間の放射線治療が終了したことを発表した。

小林さんは乳がんのステージⅣだから、まだまだ予断を許さない状況ではあるが、とりあえずひと段落といったところだろうか。この治療をしたことでよりいい方向に進んでほしい。

 

いままで女性キャスターで「がん」だと発表したのは小林さんだけだと思っていたが、実はもうひとりいることを最近知った。

NHKBS放送の「国際報道2014」のキャスターだった黒木奈々さんだ。

 

 

小林さんは「乳がん」だったが、黒木さんは「胃がん」だった。

2014年7月27日、黒木さんは学生時代の友人たちと食事をしている際に、突如胃に激痛が走り、その場に倒れた。

すぐに救急車で搬送され、急性胃潰瘍だとわかったが、後日「胃がん」であることが発覚した。

がんだと発覚したとき、まっさきに頭に浮かんだのは「自分の身体の心配」ではなく、「仕事」のことだった。

 

そして、次に私の頭をかけめぐったのは、自分の体の心配ではなかった。「ああ、今日で番組降板になるんだ...「キャスター」は私の人生そのものなのに。努力してやっとつかんだチャンスなのにー」

番組が始まってまだ四カ月なのに。なんで、なんで... ...。急に涙があふれ出てきた。

 

がんだと告知されたら、ふつう自分の身体や寿命について心配しそうだが、黒木さんの場合はちがった。まず最初に仕事の心配をしたのだ。いったいなぜなのか。

それはキャスターという仕事に対して、半端ないほどの情熱を捧げていたからだ。

小学生のときにキャスターになることを志し、アナウンサースクールにも通った。しかし、就職活動ではすべてのキャスター試験に落ち、最終的に報道記者として毎日放送MBS)に入社。報道記者からキャスターになろうと試みたが、断念し、フリーアナウンサーに。

キャスターは呼称、アナウンサーは職の名前

 

黒木さんのように容姿端麗、頭脳明晰(大学は上智でフランス語ペラペラ)のひとでも、メインキャスターの座をつかむまでに9年の歳月がかかっている。本書を読むと、キャスターへの道がこんなにも険しいのかとたびたび思わされる。

 

本書は「がん闘病記」ではあるけれど、お涙ちょうだい的な内容ではない。ルポ的に黒木さんの日常が淡々と書かれている。サクサク読めるからあっという間に読めるだろう。

本書を読んで、自分の父のことを思い出した。7年前、父は「硬膜化血腫」で倒れた。当時は半身麻痺が残るだろうと言われたが、50代だったこともあり、いまではピンピンしている。

結局、2ヶ月ほどの入院だったが、いつだったか父に入院したときに何を考えてたのか訊いたことがある。

すると、「仕事のこと」と答えた。当時ぼくは大学一年生だったんだけど、わりと衝撃的だった。

「自分の今後について」や「ずっと泣いていた母のこと」ではなく、「仕事のこと」と答えたからだ。

父にしても、黒木さんにしても仕事が好きなのだ。仕事に対する熱い想いを持っていたり、一生懸命打ち込むひとはかっこいい。本書を読めば、黒木さんがキャスターに対して並々ならぬ想いを持ちながら仕事に取り組んでいたことをヒシヒシと感じることができる。

 

さてさて、話が脱線してしまったが、黒木さんはがん発覚後、世間に自分の病を公表した。その後、胃がん手術、抗がん剤治療を受け、2015年1月4日の『国際報道2015』に1日限定で4ヶ月ぶりの復帰を果たす。

さらに3月には月曜限定で同番組に復帰。抗がん剤治療は順調のように見られた。

しかし、7月に体調を崩し、8月に入院。そして、9月19日、家族に看取られながら亡くなった。32歳の若さだった。

 

もし、これを読んでいるひとが「ここ数年健康診断なんて受けてないよ」というひとだったら、すぐに健康診断と人間ドックを受けてほしい。

黒木さんはフリーのアナウンサーだったこともあり、会社勤めの人とは違って、年に一回の健康診断がなかったのだ。

とはいえ、黒木さんは身体の調子がおかしかったら、その都度病院に通っていた。血液検査やレントゲンは撮っていたが、胃カメラや全身の検査は行っていなかった。がんになった後、黒木さんは入念な検査を定期的に受けるべきだったと後悔している。

ぜひとも健康診断に行っていないひとは、いますぐに行ってほしい。

無名のAV女優が5年間で1000本のビデオに出演するトップ女優になった話《キカタン日記 上原亜衣》

f:id:yukiumaoka:20161217190518j:image

 

kai-you.net

2015年11月17日(火)、アダルトビデオのファン感謝祭『Japan Adult Expo(JAE)』で、AV女優の上原亜衣さんが引退を発表した。

多くのAV女優が1桁もしくは2桁の出演数で引退するのに対して、上原さんは5年間の活動で約1000本以上のビデオに出演した。

単純計算で年間約200本の作品に出演していたことになる。丈夫な身体と強い精神力を持ち合わせていないとこれだけ多くの作品に出演することはできないだろう。

上原さんといえば、『DMMアダルトアワード2014』で最優秀女優賞を受賞したのは有名な話だ。これはDMM.comが運営する日本最大級のアワードで、数多くの有名なAV女優が参加するビッグイベントだ。

ここで特筆すべきなのは、S級女優の証である『単体女優』ではなく、上原さんが『企画女優』だったにもかかわらずグランプリをとったことだ。

そもそも、AV女優というのは2つの階級がある。ひとつが『企画女優』もうひとつが『単体女優』だ。

 

単体女優とは、AVメーカーと専属契約を結び、一人で(単体)でAVの作品に出られる女優のこと。メーカーのバックアップの下、デビューから盛大なプロモーションが行われる"S級"の女優です。なりたくても、簡単になれるものではありません。実際、単体女優としてデビューできるのは、ほんの一握りです。
それ以外の大勢は企画女優。1本の作品に多数の女優が出演するオムニバス作品(複数の女優が出演する作品)も多い、素人ナンパもののAVや、乱交もの、SM系の凌辱ものなどの企画作品に出演する女優です。
そんな企画女優の中で、単体で作品に出演できる女優は「企画"単体女優」、通称・キカタンと呼ばれています。

 

上原さんは『企画女優』としてデビューし、のちに一人で作品にでる機会が増え『キカタン』と呼ばれるようになった。

そんな彼女が『単体女優』らを追い抜き、日本一のAV女優となったのだ。高校野球でいうと、まったくの無名高校が甲子園でいきなり優勝するみたいな感じだろう(たぶん)

 

 

上原さんがAVにデビューしたのは19歳のとき。保育士を目指して短大に通っていたときのことだ。きっかけは知人からの紹介で、『企画女優』としてデビューすることになった。

もともとAVの仕事は大学を卒業するまでのバイトだと決めており、この仕事に対して強い思い入れがあったわけではない。が、しかし、ある人物の登場によって彼女の運命は大きく変わることになる。

AV女優としてデビューし、半年たったときのことだ。上原さんの所属する事務所に大型新人が入ってきた。彼女の名前は小島みなみ。いまも現役で活躍する売れっ子AV女優だ。

彼女は上原さんとは違い『単体女優』としてデビュー。つまり、事務所一押しの女優ということだ。後輩が華々しくデビューしたことで、負けん気の強い上原さんに火がつき、その日から彼女に負けないためにあらゆる努力をしはじめる。

『単体女優』は『企画女優』に比べギャラも多く、S級女優の証でもあるが、ひとつだけ欠点がある。

それは、決まった本数しか出演することができないということだ。ひとつのメーカーと専属契約をするため、月に一本しか出演することができない。

そこで上原さんは小島みなみをはじめとする『単体女優』に勝つためにあるひとつの大きな決断をする。

 

それは「あらゆる作品に出ること」だった。

 

AV業界には「NG事項」というものが存在する。レイプNG、レズNG、縛りNGなど、自分のやりたくないジャンルはNGを出せる。しかし、NGが多ければ、作品に出演できる機会が減ってしまう。

ゆえに上原さんはNG項目を減らし、自分に来た仕事は断らないというスタンスで挑むことになったのだ。

しかし、それだけでは『単体女優』との差を埋めることはできない。『単体女優』と『企画女優』にはそれほど大きな差があるのだ。

そもそも彼女はデビューするとき、AV女優として恵まれた身体の持ち主ではなかった。歯並びは悪く(現在は矯正済み)、バストはCカップ、スタイルも決していいわけではなかった。

そこで自分にしかない武器を身につけようと思い立ち、あるジャンルに挑戦しようとする。

 

今さら容姿は変えようもないので、私は見る人がビックリするような「性戯」を極めようと思いました。それなら努力次第で、なんとかなりそうだったので...。
そこで狙いをつけたのが、「潮吹き」でした。当時の私は、あらゆるAVを見て研究していたので、潮吹きブームがやって来そうな予感があったんです。

 

のちに「潮吹き」は彼女の代名詞となるのだが、この「潮吹き」をマスターするまでのプロセスがすごい。レンタルビデオ店であらゆる「潮吹き」と名のつく作品を借り、勉強。さらに毎日自分の身体で「潮吹き」の猛特訓。

この特訓により「潮吹き」を自由自在にあやつれるようになり、「潮吹き女王」という大きな肩書きを手にいれたわけだけど、彼女のストイックさを表すエピソードはこれだけではない。

デビューからしばらくして、ネット上で上原さんの整形疑惑が出たことがあった。とある掲示板にはこう書かれていた。「デビュー当時の写真と今の顔が違いすぎる」と。上原さんはこの疑惑を打ち消すためにあるジャンルの企画に出演する。

 

ちなみに、ネットでは"鼻がおかしい"なんて書き込みもありましたけど、何も入れてませんよ(笑)。その証拠に、私の出演するSM系作品を見てください。"鼻フック"をNGにしていないんです!鼻にフックをかけられて"ブタ鼻"にされるやつです。実はあれ、整形をしていたら、入れたシリコンがずれちゃうんですよ。あえて「鼻フック」に挑んでいたのは、整形疑惑を払拭するためでもあったんです(笑)

 

いやもう「すげぇ」の一言に尽きる。 「そんな理由で鼻フックしたんかい」とおもわずツッコミを入れたくなる。

この業界は芸能界と同じで入れ替わりが激しい世界で、毎年のように女優さんが引退していく。周知の事実ではあるが、やっぱり身体的にも精神的にもハードな仕事なんだなぁと再認識させられた。

というのも上原さんも月に25回の撮影があったときは身体を壊していたからだ。

 

 

当時の私は月に25日ぐらい、撮影のスケジュールが入っていたんです。AV撮影のない日も撮影会や雑誌のインタビューなどがあるので、ほぼ年中無休状態。有名になるためなので、さほど苦とも思いませんでしたが、体はボロボロでしたね。毎日、ハードなSEXをしていれば、アソコも痛くなってきます。この頃は、撮影前にローションを3本分ほどアソコの中に仕込んでおくこともありました。ローションでたっぷり濡らしておかないと、痛くて仕方なかったんです。(中略)

そのうえ、撮影は早朝から深夜まで続くことが大半です。睡眠時間は1時間程度の日なんてザラでした。(中略)

喉の粘膜が傷ついて扁桃腺が腫れやすくなり、しばしば高熱が出るようになってしまったんです。ひどいときは、朝起きたら40度近い熱があって、現場にすら行けない。なんとか行けたとしても、現場で倒れてしまったりもしました。

 

まるでブラック企業に勤めているひとのスケジュールだ。とはいえ、それくらいストイックにやり続けないと、この世界で売れるにはむずかしいことなんだろうなぁとも思わされる。

このストイックな姿勢を貫いた結果、冒頭にも書いたとおり、『DMMアダルトアワード2014』で最優秀女優賞を受賞した。「テッペンとったし、さあこれから!」というときに上原さん自身にあるひとつの感情が芽生えた。

 

なんのためにAVに出るんだろう

 

持ち前の負けん気の強さとストイックな性格でここまで突き進んできた上原さんだったが、だんだん撮影に身が入らなくなってしまった。

そう、彼女は目標を見失ってしまったのだ。それはトップをとったことによる代償だったのかもしれない。こうして彼女は引退を決意し、2015年11月17日(火)に引退を発表した。

こうやってみると、「上原亜衣は超人だ!」と思うかもしれないが、どこにでもいるフツーな女の子の一面もあるし、この世界に身を置くならではの悩みもかかえている。

 

両親には、いまだにバレていません(と、自分では思っています)が、もし両親が、私がAV女優をしていたことを知ってしまったら...悲しむに決まっていますし、そのことを想像すると、やはり胸が苦しくなります。自ら選んだ道なので、私は何を言われようと構わないんですが、父や母、祖母、妹にも何かしらの形で迷惑がかかる可能性もあるのです。

いえ、それだけではありません。私にも結婚願望はあります。もし、私の過去を知ったうえで人生を共にしてくれるという男性が現れたなら、結婚もしたいし、子どもだって欲しいのが本音です。でも、その一方で、もし自分の子どもが私の過去を知ったら、そのときに、なんて説明するのかと聞かれると、答えに窮するのも事実です。黙っていてもいいけど、私がAV女優であったことは消せない過去です。どこから、どう伝わるか分かりません。自分の母が元AV女優だったら、子どもはどう思うでしょう。そんなことを考え始めると、やっぱり不安で仕方なくなるんですよね。(中略)

AV女優になって、得たものもたくさんありましたけど、失ったものも大きかった。そういった意味では、後悔がないと言ったら嘘になります。

 

上原さんはすでに友達バレも恋人バレ、どちらも経験している。しかし、家族には言っていない(妹には言っている)

AV女優の紗倉まなさんは、母親から自分の出演した作品のフィードバックをもらう間柄だが、これは特殊な家庭だろう。上原さんのように家族には秘密にしているケースが多く、AV女優がなかなか理解を得られない職業であるのもまた事実である。

 

本書はフォトエッセイで、文量もそんなに多くないからサクッと読める。また読みたい一冊だった。

 

 

yukiumaoka.hatenablog.com

yukiumaoka.hatenablog.com

twitter.com