読書めも

読んだ本の感想をぼちぼち書いてます

最近読んだ8冊をまとめて紹介する

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7月に読んだ本のまとめ

7月に感想を書いた本の数は全部で8冊。これは感想を書いた本数で、読んだ本数ではない。そこで7月に読んだ本の数を数えてみたところ、16冊だった。つまり、8冊の本の感想を書いていなかったので、その書かなかった本をまとめて紹介する。

 

がんさく (幻冬舎よしもと文庫)

がんさく (幻冬舎よしもと文庫)

 

ダウンタウン浜田雅功さんの書き下ろしエッセイ。「仕事」「恋愛」「結婚」「子育て」を浜田さんがまじめに語る。バラエティではそういったことを一切語らないので、違った浜田さんの一面を知ることができる。大阪で売れて、アイドルのような状態になり、自分たちの漫才をちゃんと聞いてほしいという理由で東京に進出したのはさすがだと思った。個人的には、松本さんの人柄や才能についてもうすこし語ってほしかった。

 

iPhoneアプリ「健康計算機」を15歳のときにリリースし、総合ランキング3位を取ったTehu。そのTehuさんがひとりの小学生に向けて個別授業をするという構成となっている。授業の内容はどれも小学校の授業では教えてくれないことだらけ。本書は文字だけの構成ではなく、ゆるい四コマもところどころで入っているので、小学生もきっと読みやすい。自分が小学生のときに読んでみたかった一冊である。

 

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 

スーパーマリオブラザーズがマリオのはじまりではなく、ドンキーコングの主人公として登場したのが第1作だったこと。マリオがアクションゲームじゃなくて、アドベンチャーゲームとして作られたこと。このふたつのことに驚かされた。またマリオ3ミニゲームは、マリオブラザーズのステージが元となっているのは初めて知った。本書はマリオ以前のゲームも取り扱っているので、古くからのゲーム好きは一度読んでみるといいのではないか。

 

県庁おもてなし課 (角川文庫)

県庁おもてなし課 (角川文庫)

 

錦戸亮さん主演で映画化された県庁おもてなし課。 有川さんの本を読むのはこれで三冊目。「旅猫リポート」「明日の子供たち」と読んできたのだけど、県庁おもてなし課は物語全体がほっこりとしている。高知県に実在する県庁おもてなし課を舞台にしていることもあり、公務員のリアルをゆるく知ることができるところが見どころだ。

 

リーダー論 (講談社AKB48新書)

リーダー論 (講談社AKB48新書)

 

AKBのメンバーが書いた本を読むのは3冊目。「非選抜アイドル」を書いた仲谷明香さんは、決して人気があるとはいえないメンバーだったが、公演やブログなどをコツコツとがんばり声優になる夢をつかんだ。「逆境力」を書いた指原莉乃さんは、アイドルとしては致命的な恋愛スキャンダルをすっぱ抜かれたのに、総選挙で一位を取り、さらには現在バラエティで大活躍中だ。彼女たちが書いた本はたしかにおもしろかった。しかし、高橋みなみさんが書いた「リーダー論」は既視感のようなものを感じ、途中で読むのをやめてしまった。その既視感がどこでみたものなのかうまく説明できないのがもどかしいところであるが、同じ既視感のようなものを感じたひとがいたら、ぜひ語り合いたいところである。

 

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

 

ジャーナリストが事件を追いかけ、警察より先に真犯人を突き止める。そんなドラマのようなことを実際にやってのけたのが清水潔さんだ。 桶川ストーカー殺人事件では、真犯人を特定しただけでなく、警察による不祥事を暴き、報道被害にあった被害者の名誉を回復させた。本書は、清水さんが追った事件の数々をまとめたものだ。地道な取材や裏取りによって情報を集め、それらを分析し、真実を明らかにしようとする姿勢は、ジャーナリストの鏡と言っていいだろう。また、手がかりをひとつずつ集め、犯人を追い詰めていくサマはまるで名探偵コナンを見ているようで、読者の心を踊らせる。また読みたい一冊だ。

 

イケてるしヤバイ長島」「インド人無視カレー」「スマホ画面がクラッシュしてたらクラッシャーズがタダ」といった人気企画を次々と生み出した株式会社バーグハンバーグバーグ。その社長であるシモダさんがまじめに仕事について語った一冊。いままで読んだビジネス書のなかでいちばんゲラゲラ笑った本だったと思う。Webに関わる仕事をしているひとには必須の一冊。

 

歩-私の生き方・考え方-

歩-私の生き方・考え方-

 

宮本慎也

人は彼をどのように評価するのだろうか。ずば抜けた才能はないが、19年間の長い現役生活、ゴールデングラブ賞10回、 2000本安打を達成。さらにチームメイトからの人望も厚く、アテネオリンピック北京オリンピックではキャプテンとして日本を支えた。稀代の名将である 野村克也はそんな彼のことを「脇役の一流」と評した。

宮本さんは将棋のコマでたとえると、自分は「王」「飛」「角」にはなれず、「金」や「銀」でもない。自らを「歩」と表現する。

 

当初、この本のタイトルは、平仮名で「あゆみ」にしようと考えていました。小学生の通信簿みたいで、私がこれまでの自分自身を採点したみたいでいいかな、と考えたからです。
しかし、考えるうちに、漢字で「歩」としたほうがいいのではないかと思いはじめました。
素質に乏しかった私のような選手は、将棋でたとえるなら「歩」でしょう。その他大勢の駒ですが、大事な駒をとられないための犠牲になったり、相手の陣地に入れば、「と金」となって大暴れする「歩」は、私の人生を象徴しているような気がしました。
私自身の通信簿でもある「あゆみ」と野球選手としての「歩」。そこで、タイトルを「歩」として、読み方を「あゆみ」とすることにしました。

 

自らを「歩」と表現した宮本さんだが、なぜ厳しいプロ野球の世界で戦い抜くことができたのか。それは本書を読んでからのおたのしみ。

 

7月に感想を書いた本一覧

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芸人として売れるには◯◯を見ろ!現役NSC講師が教えるお笑い哲学《吉本芸人に学ぶ生き残る力 本多正識》

吉本芸人に学ぶ 生き残る力

吉本芸人に学ぶ 生き残る力

 

NSC、ニュースタークリエーションの略称。吉本興業が運営するお笑い養成所だ。東京、大阪、沖縄の3拠点を構え、現在のバラエティで活躍する多くの芸人がここで生まれた。創設されたのが1982年。この年に入学してきた第1期生こそがあのダウンタウンだ。そして、この第1期生に明石家さんま島田紳助オール巨人が順番に授業を行い、生徒たちのネタを見た。その後、三人が集まって「一組だけスゴいコンビがいたな」となり、それが三人ともダウンタウンで一致していた、というのは有名な話だ。

キングコングオリエンタルラジオも養成所時代から、ずば抜けた実力を持っていたらしく、オリエンタルラジオなんかは、卒業前から卒業後のテレビ出演が多数決まっていた(一年目からテレビに出演なんてことは普通はありえない)

毎年1000人近くがこの門をたたくが、夏には半分がこの学校を去り、卒業するころには300人ほどになっているらしい。じつに厳しい世界である。

 

『よしもと芸人に学ぶ生き残る力』を読んだ。著者の本多正識さんは、漫才作家であり、現役NSC講師だ。

本書は、そのNSCの講師を務める本多さんが芸人として売れるのはどうしたらいいのか、売れてきた生徒の共通点などそういったことが書かれている。また、本多さんの教え子であるナインティナイン岡村隆史キングコング西野亮廣南海キャンディーズ山里亮太ウーマンラッシュアワー村本大輔といった教え子の芸人との対談も収録されており、NSC時代のかれらの姿を知ることができる。NSC時代の思い出話はお笑いファンにとって貴重で、これがなかなかおもしろい。

 

NSCでいちばんされる質問

 

「人を笑わせるにはどうすればいいんですか?」

そのたびに私はこう答えています。「ニュースを見なさい」ここで彼らはみな首をかしげます。ニュース番組を「お堅い、真面目」とイメージしているので、「笑い」からはもっとも縁遠いものだと思っているのです。
しかし、それは大きな間違いです。実は、ニュースを見ることは笑いを生むことに直結しているのです。
人を笑わせる代表的な手法に「常識を覆す」というものがあります。わかりやすい例では、「こんにちは」と言った拍子に、首を横に倒すだけで笑いが取れます。これは、見ている側に「こんにちは=会釈をする=頭を前に下げる」という常識があるため、「その挨拶はおかしい」となって笑いが生まれるのです。
この例は「常識を知る=笑いを取れる」ということを示しています。そして、その常識を効率よく学ぶための、もっとも洗練された媒体が「ニュース」なのです。

 

ネタをつくることでもなく、売れている芸人の真似をするのでなく、ニュースを見る。お笑いとは関係なさそうだが、これが笑いの上達の早道だという。

ちなみにこの基本を教えられてもしっかりとやるひとは少ない。そして、この基本を忠実にやり続けた男こそが山里亮太だ。山里さんとの対談で本多さんはこう語っていた。

 

本多 最初の授業でこれからはニュースをしっかり見るようにって言ったときに、山ちゃんが「どのニュースが一番わかりやすいですか?」って聞いてきた。だから当時、池上彰さんがNHKでやっていた「週刊こどもニュースかな」って言ったら、それからずっと見てたんだよね。
何年後かに、楽屋でめちゃくちゃ重たいカバンを持ってて、「お前何入れてんねん?」てカバンを開けたら、その「こどもニュース」の本や政治・経済のハードカバーの本が5〜6冊入ってて。「ずっと勉強してんねや」って言ったら、「紳助さんやさんまさんに、山里どうやねんて言われたときにすぐに返事ができないと、僕のポジションはなくなりますから。だから今が一番勉強してます」って、あの言葉がものすごい印象に残った。そのことを授業で言わせてもらってる。「それくらい努力しないと残られへん」て。自分のポジションをどれだけ早く理解するか。

 

自分のポジションを理解することは難しい。野球のようにポジションが明確に分かれていればいいが、お笑いの世界では野球ほどポジションが明確ではない。だれもどこのポジションが空いているかなんて教えてくれないし、たとえポジションが見つかったとしても、それが自分の適しているのかすらもわからない。

ポジションに関して、印象深いエピソードがある。すでに芸能界を引退した島田紳助さんが、以前出演していたテレビ番組でこう言っていた。

「さんまやオール巨人阪神がいなかったら、いまの自分はいない」と。

明石家さんまオール巨人阪神は、同期のなかでも飛び抜けた存在だった。さんまさんは天性の明るさを身にまとった人気者、オール巨人阪神さんはずば抜けた漫才の実力者。「人気者はダメ、漫才も無理...なら、オレはヒール役や!」と自分の向かう道とポジションが自然と決まったという。

これがいわゆる頭をリーゼントにして、つなぎを着て漫才をするツッパリ漫才につながった。個性が強い同期の三人がいたからこそ、紳助さんは己のポジションを見つけることができたのだ。

 

お笑い以外で勝負しようとした

 

本多 山ちゃんは、ホントによく質問してたもんね。毎回あまりに熱心だから、この子大丈夫かな、考えすぎて、ノイローゼにならないかなって心配だった。

山里 決めてたんですよ、先生には絶対質問するって。その授業の前のネタ合わせと、先生への質問と、その質問から派生して、聞かれたらこう返すっていうのを、毎回授業の前に2時間取ってました。いやらしい話、先生に質問いっぱいするやつは覚えてもらえますから。頑張ってるってことをアピールできる。(中略)
たとえ"メモ取り魔"と言われても一生懸命メモを取る。ネタ合わせを何十回、何百回やって、先生の言われたことを守る。そして、それを先生に見てもらって覚えてもらうっていうような、お笑い以外の部分で勝負しようとしたのが、結果お笑いの力も付いていったということですね。

 

自分に力がないことを認めるのは難しい。しかし、山里さんは早くから自分に力がないことを認め、お笑い以外の部分で勝負をした。それが結果的によかった。ある意味戦略的ともいえるだろう。山里さんがとった戦略は決していやらしいものではない。そもそもやろうと思っても、なかなかできないことだ。

 

現役講師がはじめてNSCの実態を明かすこの一冊、お笑いファンならば、ぜひ読むことをおすすめする。

 

天才になりたい (朝日新書)

天才になりたい (朝日新書)

 

聴覚障がい者が生まれて初めて音を聞いたらどうなるか《音に出会った日 ジョー・ミルン》

 

2014年3月26日、YouTubeに一本の動画が投稿された。 この動画は、イギリス人の女性が人工内耳移植という手術を受け、39歳にしてはじめて音を聞いた瞬間を記録したものだ。

彼女がはじめて耳にした言葉は、傍にいる聴覚機能訓練士が発した「聞こえますか?」という問いかけだった。40年ちかく待ち望んできたものを耳にして、歓喜の涙が溢れた。

彼女の名前は、ジョー・ミルン。先天性の聴覚障がいを抱え、29歳のときにはアッシャー症候群と診断され、いつか視覚を失うことを宣告された。

この動画は反響を呼び、200万再生を突破した。そんな彼女の半生を記した本『音に出会った日』を読んだ。

 

音に出会った日

音に出会った日

 

 

ジョーさんの人生は試練の連続だった。最初の試練は小学校に入学したときに訪れた。母の強い要望で聾学校には通わず、姉とおなじ一般の小学校を通うことになったのだが、この小学校入学がジョーさんにとって悪夢のはじまりだった。

同級生から、耐えがたいイジメの毎日。心ないあだ名を付けられたり、殴られたり、蹴られたり。ときには親友がイジメに加担することもあった。

 

ふつうの女の子なら大目に見られるだろうちょっとしたまちがいでも、わたしの場合はいじめの理由になった。耳の聞こえない子はほかの子とはちがうのだ。聴力という贈り物を受け取らずに生まれたのだから、頭を叩かれたり髪を引き抜かれたりして当然と、彼女たちは思っていたようだ。(中略)
親友と呼べる相手は、ヴィクトリアがはじめてだった。だが、彼女ですらときにいじめっ子の仲間に引きずりこまれることがあった。放課後にトイレでわたしを叩く集団の中に、親友の顔を見つけることもあった。
もっとも、女ボスの命令でいやいややらされていた。わたしの髪を引っ張るとき、ヴィクトリアはけっして力を入れなかったし、「ずっと友達だからね」と唇の動きで教えてくれた。週末はきまって、彼女はわたしに謝るのだった。彼女が自衛本能に従っているのはわかっていた。いじめの仲間に加わらなければ、自分が標的にされるからだ。

 

ジョーさんが小学校に入学したのは1970年代。当時の補聴器は現在のような小型なものではなく、耳にイヤホンをつける以外に音を増幅する四角い金属の箱を首からさげなければならなかった。珍しいものを身につけているジョーさんは、ほかの子どもたちにとってイジメの標的にしやすかったのだろう。

 

そんなときいつも彼女を救ってくれたのは母と祖父だった。母はジョーさんの身に何かあれば学校に乗り込んで、彼女を守った。祖父は、仕事が忙しい父親代わりの存在で、いつも優しい言葉をかけてくれた。このふたりがいなければ、いまのジョーさんはいないだろう。

 

そんな味方がいたけれど、ジョーさんはイジメのことを先生になかなか言わなかった。いったいなぜなのか。

 

角を曲がると通りに立つ母の姿が見えた。坂の上からでも心配そうな様子が見て取れた。「どうしていつもいじめられっぱなしなの?」母がわたしに尋ねた。「どうして先生に言わないの?」
それは、わたしがお土産を学校に持って行ったのとおなじ理由だ。ーみんなに好かれたいから。耳の聞こえない少女へのいじめは、相手がこっちを好いてくれればやむんじゃないの?スペインのお土産を渡せば、わたしもみんなとおなじだとわかってくれるはずでしょ?それとも、お土産を叩き壊してわたしの机の中に入れておく?

 

自分を嫌う相手でも、好意を示せば仲良くなれると純粋に思うジョーさんは、美しくもあるが、読んでいる者にとっては苦しく、いじめっ子に対して憤りを感じる。

 

転機が訪れたのは、中学校に入学したときだ。生徒の数が多くなった中学校では、いじめっ子たちの関心はほかに移り、ジョーさんへのいじめはなくなった。そして、中学・高校では友達にも恵まれ、楽しい学校生活を送ることができた。

ところが、16歳のとき突然試験中に気を失う。医者の診断によると、アッシャー症候群の可能性が高いことがわかった。つまり、いつの日か光を失う可能性があると診断されたのだ。

崖っぷちに追いやられたことで、ジョーさんは21歳のときに一大決心をする。幼いころからの夢だった看護師になるために、大学に進学することを決めたのだ。それからの二年間必死で働き貯金をし、23歳のときにやっとのことでニューカッスル大学に入学することができた。

ところが入学早々にして講師からのとんでもないいやがらせを受けることになる。

ジョーさんは担当講師に授業で、講師の唇を読めるよう配慮してほしいと訴えたが、その講師はその訴えを拒否し、教室内を歩き回りながら授業を始めた。なんとか彼の唇の動きを見逃すまいとジョーさんは頭の方向をあちこち変えたが、それも無駄だった。

しかし、いやがらせはここで終わらなかった。その講師はなんとジョーさんの真後ろに立って「看護師さん!看護師さん!」と彼女に向かって言った。当然彼女の耳にはその言葉は届かない。

そして、彼女の前に立ってこう尋ねた。「いま、わたしは先ほどなんと言いましたか?」と。ジョーさんがわかりません、と答えるとほかの生徒に向かって「ほらみたことか」といわんばかりのガッツポーズを見せた。

つまり、講師は患者からの問いかけに気づくことができないあなたは看護師になる資格はないと皆のまえで言ったのだ。耐えがたい屈辱を受けた彼女はこのことがきっかけで大学を辞めた。

 

神はどれだけの試練を彼女に与えたら気が済むのだろうか。大学を辞めてからも彼女の試練はつづく。アッシャー症候群の症状が悪化。視野が狭くなり、大好きだった車の運転も天職だと思えた仕事も辞めざるを得ない状況になった。

ジョーさんが試練に直面するたびに、読者は「なぜ彼女だけがこんな思いをしなくてはならないのか」と思うだろう。

同時に彼女はどうしてこんなにも力強く生きることができるのかとも思うはずだ。本書を読み終えたとき、あたりまえのように目が見えること、あたりまえのように耳が聞こえることに対して、感謝の気持ちをきっと覚えることになるだろう。